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大河内家の給仕の人が私にも紅茶を淹れてくれた。紅子がテーブルに置かれた焼き菓子を勧めてくれる。
その焼き菓子を見て、思わずあっと声が出てしまった。
「わ、これ玉鉤国のお菓子じゃない。Kuih Bahuluでしょ」
月例試験で朔夜を抜いた時、自分へのご褒美として例の飯屋で買うお菓子だ。もう何か月も食べていない。
「あら、ご存じなのね」
「うん。うちの近くに美味しい玉鉤国料理の飯屋があってね。そこでたまーに買うんだ」
「まあ。……あの、もしかしてそこ、賀臼町にあるお店かしら」
「そうそう。よく知っているねえ。やっぱり有名なん」
「ええっ!」
紅子が顔に合わない叫び声を上げる。給仕の人がぎょっとして振り返っていた。
「ご、ごめんなさい。瑠奈、そこへはよく行かれるの」
「よく、ってほどでもないかなあ。ちょっと高いんだよね。でも月に一度は行くよ。近所だから」
「近所……」
紅子は頬を押さえて私を見た。
「実は、私の恋人が、そこで料理人をしているの」
その言葉に今度は私が叫びだしそうになる。
「え、ええ……。凄い偶然」
苦労して叫びをお腹の中に戻す。
偶然、と言える種類のものなのかわからないが、驚きすぎて咄嗟に出たのがこの言葉だった。
紅子に恋人がいる、というのは、なんとなく理解できる。美人だし。
だが彼女はただの美人ではない。大河内製薬の社長令嬢、しかも一人娘なのだ。
「え、えーとえーと、どんな出会いだったか、なんて訊いていいかな」
「うふふ。どんどん訊いて訊いて。でも出会いは普通よ。あのお店の評判を聞いて、食べに行ったのがきっかけ」
確かに普通だ。でも、そのあまりに庶民的な普通さに頭がついていけない。
第一、この歳なら考えるであろう結婚や後継ぎはどうするのだ。
「私は一人っ子なのだけれど、会社は継がないの。社内の優秀な方が継ぐ、って昔から決まっていたからね」
顔に出ていたのだろうか、私の疑問を先回りするかのように話を続ける。
「そして私は大学を卒業したら、別のお仕事をするのよ」
「えっ、紅子、働くの? なんで?」
「だって、私たちにはそれぞれの夢があるのですもの」
長い睫毛に縁どられた大きな目が私を見る。
「父は自分が作った会社を最高の形で大きくする。恋人は自分の店を持つ。そして私は女学校を作る」
瞳の強い光に吸い込まれる。
「皆が自分の夢に向かって、想いのままに生きているの。それでも愛情で深く繋がっているから、いつでもひとつでいられるのよ」
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