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グラウンドで土埃を被りながら練習に勤しむ野球部の様子を、モスグリーンの油絵の具を絞りながら伺ってた。大抵日が暮れるころに、野球部員は丁寧に挨拶をして帰り支度を始める。その背中を目を凝らしながら見届け、誰もいない美術室に鍵を掛けて昇降口まで駆けて行く。
上履きをしまいながら息を整え、部室棟から流れ出てくる坊主頭の群れを見張る。一際背の高い男子を見つけると、そっと後ろをつけた。
校門で部員と別れた幼馴染、翔梧の硬そうな背中が街灯の淡い光を受けて浮かび上がる。何メートルか離れた距離に焦り、急いているのに、歩幅の差で中々近付けない。頭の上で三日月が嘲笑っている。
えいっとローファーの靴底でアスファルトを蹴った。
遠くから聞こえる車の走行音よりも騒がしい足音が鳴ると、翔梧はようやく振り返った。見知った者と分かると足を止め、「お前も今まで部活?」と気だるげに唇を開ける。
「うん、文化祭に出すやつ描いてたの」
「そうか。大変だな」
低い声が耳孔に注ぎ、密かに唾を飲む。
ごく自然なふるまいで隣に並んだ。
私より頭一つ分以上、上背のある翔梧に目線を合わせるのは容易ではない。中学一年生までは私の方が背が高かったのに、それから魔法をかけられたようにすくすくと育った翔梧に、ついには見下ろされるようになってしまった。
彼の喉ぼとけの大きさと、図体の成長に、私はいまだ慣れずにいる。
傍にいると、顔がぼうぼうと火照る。
初秋の風に吹かれて、指先が冷たかった。それなのに手の平にはじっとりと汗をかいている。勉強をしないなままテストを受ける時の、シャーペンが張り付く感じに似ていた。
「翔梧、あのさ」
私の勢いの無い声に、翔梧の白目が暗闇の中でこちらを向く。
「最近、変わったことある?」
「いや……別に、無いけど」
「野球部の人が噂してたよ。翔梧、あんまり遊ばなくなったって。彼女、出来たんじゃないかって」
翔梧は瞳を大きくして、少しの間黙った後、「そんなのただの噂だ」と手の甲で口を拭った。私はその仕草が、都合の悪いことが起こった時の翔梧の癖だということを知っていた。
気になる。
しかし、これ以上詮索出来なかった。
昔はおねしょをしたことも互いに知る仲だったが、もうプライベートを共有出来るほど幼くなくなってしまった。何より私は、彼を安心させるために、昔から変わらない色気の無い幼馴染であるべきなのだ。それが翔梧の特別でいられる条件。
「もし、本当に彼女が出来たら教えてよね。私も挨拶しないと」
一生懸命ふざけた調子で笑うと、翔梧も口角を上げた。
「母親かよ」
それから話題は選択教科の授業に移り、練習試合に移り、喉に引っかかる痰を残したような状態で翔梧の家の前に着いていた。恋しく思いつつ、「じゃあね」と背を向けると、闇の濃くなった頭上に一層暗い影が出来た。見上げた先には翔梧の不愛想な顔があった。
「送る」
「え?うち、すぐだよ?」
「暗いの恐いって泣いてただろ、昔」
「さすがに今は大丈夫になったよ」
呆れて見せたが、胸の中では心臓が踊り回っていた。
ぽつぽつと民家があるだけの舗装のしていない道を、翔梧は護衛のようについてくる。
たった二百メートルほどの間に、私は呼吸困難になりそうだった。
きっちり玄関ポーチまでついて来て、翔梧は何事も無かったように来た道を戻って行った。
興奮で震える手でドアを開け、リビングに顔も出さずに自室に飛び込んだ。ベッドに顔を押し付けると「ぐうう」と潰れたような声が漏れて、頬が茹でた餅のように緩んだ。
『男勝りな幼馴染』では無く、女の子扱いされているようで嬉しかった。
一緒にいると気を遣わなくて楽しくて、でも無口で不器用だから少しだけ心配で、翔梧のことをずっと好ましく思っていた。それが友情か愛情か考え出したのは最近のことだ。答えはいまだ出ずにいるけれど。
心音が指先にまで伝わってくる。
不穏な噂のことはまるで頭から抜けてしまっていた。
***
しかし翌日、友人が『翔梧の彼女』についてまた喋っていたところに出くわした。気分はジェットコースターだった。
「茶髪でパーマらしいよ」
「え、翔梧君チャラい系好きなんだ」
「しかも小柄なんだって」
「へ~、何か意外」
「目もパッチリ」
「可愛い子なんだろうねえ」
傍で話しているものだから、トイレに行くのも忘れて聞き耳を立てていた。
輪になったうちの一人が、「つかさ、翔梧君こと聞いてないの?」と首を傾げて、好奇心を固めたような両目を向けてくる。
私も同じ方向に首を傾けて、「さあ?」と呆けて返した。
次の授業は案の定上の空で、自分の長い直毛の黒髪を摘まんでみたり、瞼を擦ってみたりした。そんなことをしても当然、茶髪パーマにもパッチリ二重にもならないので落ち込む。
窓の外からは、どこかのクラスが体育の授業をしている声が聞こえていた。目の前にいる先生の声はまったく耳に入らないのに、教室の外の物音には敏感だった。どこかに翔梧の気配が無いかを探していた。
美術室はいつもと変わらず、海外の厚いチョコレートのような匂いが充満していた。
部員たちに挨拶をして、スケッチブックを持って席に着く。鉛筆の柔らかい芯が、私の意思を無視するように濃い線を描いていく。
彫りの深い目元。左頬にほくろ。伸びかけの坊主頭。
その隣に、見たこともない女性の姿。
自分で描いたくせに泣きたくなった。お似合いだ。私の世界はおしまいだ。
そのページを破り捨てることが出来れば少しだけでも楽だったかもしれないのに、そんな度胸も無く、スケッチブックを大事にロッカーにしまった。
準備室から描きかけのキャンバスを引き摺るように出してきて、絵具を塗りつけ始める。
色づいた銀杏の葉が西日に照らされ、より明るく輝いていた。窓からの陽射しを受けて伸びる私の影だけが、不吉なもののように見えた。
***
期末考査期間で部活動が停止されていたため、翔梧と久しぶりに下校が被った。前と違うのは、先を歩いていた私を、翔梧が追い掛けて来たことだ。
「久しぶり」
翔梧が私の顔を見下ろす。
「テストどう?」
「古文全然ダメ」
顔を歪めると、翔梧が苦笑した。
「俺もダメだった」
やけに表情が明るい。部活用のバッグを持っていない翔梧の体はいつもより軽そうだった。
私はわざと歩調を合わせず、彼の斜め後ろを歩く。何も気にしていなさそうな顔を間近で見ていると、胸の中のささくれが痛みそうだった。
分断された空気の中で暫く黙って歩いていた翔梧が、突然立ち止まる。
私もつられて足を止めると、彼は不機嫌そうに私を見て、「なあ」と呟いた。
「何で黙ってんの」
「……別に、何でもないよ」
「調子狂う」
翔梧が形のいい頭を掻く。そして気まずそうに視線を彷徨わせた後、私の目を真っ直ぐに見て、「会わせたい奴がいる」と芯を通したような声で言った。
「お前も気に入ると思う」
噂の彼女のことだろうか。
予想外のことで声も出ない。
「明日やっとうちに来るんだ。夕方頃、連れて行っていいか?」」
翔梧が射貫くように私を見るので、息が詰まって身動ぎできなくなった。唾を飲むことも憚られる。それでもどうにか逃げたかった。
手入れのされていないブリキのロボットのようなぎこちなさで翔梧に背を向け、「分かった」と抑揚なく返した。
翔梧を放っておいて、負傷した体を引き摺るように歩く。その何メートルか後ろから硬い足音が聞こえ出したが、もう振り返ることはなかった。
それでも無意識に、互いの存在を確かめながら帰路に就いた。一緒に手を繋いで歩いたことが、遠くに見える蜃気楼に思えた。
家に着くと、リビングで母がチョコレート菓子を摘まんでいた。
「あれ、何かあったの? そんな恐い顔して」
顔を触ってみると、唇がくちばしのように尖っていた。それが引っ込むようにと指の腹で筋肉を解す。
「そういえばさっき翔梧ママに会ったよ。明日可愛い子が来るんだ~って話してた。つかさ、何か聞いた?」
戻した筈の唇が再びくちばしになった。
「知らない」
そのまま階段を駆け上がる。
「お昼ごはん食べにおいでよー」と母の声が追い掛けてくる。
一人、机に向かいながら翔梧の彼女のことを考えた。
私が気に入るような可愛い子ってどんな子だろう。
飾り気が無くて、無邪気で、少女漫画の主人公のような、誰からも好かれそうな子だろうか。
子どもの頃を寸分も漏らさず共に過ごしてきた不器用な翔梧が、私以外の誰かを一途に想っていることを想像すると、目の奥が熱くなった。自意識過剰にも、翔梧にとっての特別は私だと思っていた。時間が私たちの仲を深くさせていると信じて疑わなかった。
もうどうせなら、私なんかでは到底敵わないと思うような魅力的な人が彼女であってほしい。そうしたらちゃんと諦められる、気がする。
喉が締まり、ついに涙が溢れると、思い出を切り取った無数の写真が滲んで不鮮明になっていく。大切な記憶が散っていく悲しみに溺れ窒息しそうになり、しかし藻掻くとますます苦しくなる。
翔梧のことが好きだった。だから自分が選ばれなかったことが、涙が出るくらい寂しい。
でも、好きだからこそ、幼馴染として祝福したい気持ちがあるのは確かだった。
顔も知らない彼女と笑い合う姿を思い浮かべると、唇を噛み潰したくなる。
それでも私は彼女に会ったみたいと思った。
私が翔梧にとって特別な存在ではないと、諦められるように。
幼馴染としてこれからもいられるように。
袖口で目を拭って鼻を啜ると、再び母が呼ぶ声がした。
鏡で口角を上げる練習をしてから、階段を下りた。
***
昨日の古文と並ぶくらい英語もダメだった。
気落ちしながらも、考査が終わったことに安心する。学校では翔梧のことを意識せずに過ごした。
それでも帰宅して絵を描いていると、茶髪の女の子が紙の上に登場してくるし、何度も溜息が漏れた。
まだおやつを食べてすぐだから、翔梧は来ないと分かっているのに落ち着かない。立ったり座ったりしながら過ごしていた。
いきなりインターフォンが鳴った。
体が跳ねて、座面に尻を打ち付ける。
階下で外向きの母の声と、宅配物のやり取りをする男性の声が聞こえ、胸を撫で下ろす。
緊張をほぐすために、ベッドに寝そべって漫画を読むことにした。創作の世界は都合のいいことが沢山起こるからいい。翔梧と漫画の貸し借りをしたことを思い出し懐かしがっていると、いつの間にかページが飛んでいて、気が付いた時には室内は赤ワインに沈んだように赤く染まっていた。
微かに話し声が聞こえる。悪い予感がした。
急いでリビングのドアを開けると、そこにはやはり、翔梧の姿があった。
母が呆れたように息を吐く。
「やっと起きたの? つかさったらグースカ寝てるから、翔梧君待ってたのよ」
ソファーに腰掛けている翔梧が私を見て、指差した。
「前髪、癖ついてる」
言われて急いで前髪を梳くも、真っ直ぐになる感触は無い。
「悪いな、休んでたとこ」
「ううん、待たせてごめんね」
母と翔梧と私しかいない空間を、怪訝に思いながら隅々まで見渡す。どこを見ても、可愛い彼女の姿は無かった。私の仕草を観察していた母が翔梧に、「さあ翔梧君。会わせてあげて」と微笑みかける。
「ああ、こっち」
思い出したように立ち上がった翔梧がリビングを出る。重い腰を上げてそれに続くと、翔梧は更に玄関ドアを開けて、外へ出て行った。私も素足にローファーをつっかけて玄関ポーチを踏む。
赤と紫の上等な幕が空を覆っていた。
翔梧が迷うことなく向かった先には、亡くなった祖母が植えた金木犀の木があった。その下で、見慣れない毛むくじゃらの生き物が忙しなく動き回っていた。
「これ、ココ。何度か会って、今日引き渡されたんだ」
木に巻き付けられた赤いリードにの先にいたのは、茶色い巻毛のトイプードルだった。人形のように柔らかそうな毛だ。黒くて真ん丸の瞳に夕陽が映っている。
「彼女は? 茶色いパーマの、小柄で、目がパッチリした」
「え、こいつのこと?」
膝から力が抜けた。崩れ落ちた私に、ココが驚いて動きを止める。
翔梧も不思議そうに瞬きをした。
「彼女って……人間じゃないの?」
「彼女いるとか、俺そんな話してないだろ」
「ええぇ……」
座り込んだままの私を一瞥して、翔梧がココのリードを握った。興奮したように息を荒くした子犬が、一目散にこちらに駆け寄ってくる。恐る恐るその小さな頭を撫でると、淀んでいた水が凪いでいくのを感じた。
「可愛いだろ。お前も好きだと思ったんだ」
翔梧が小さく鼻を鳴らす。小憎たらしいが、夕陽を背負う逞しい姿を見つめると、枯らそうとしたはずの愛しさが込み上げてくる。
安堵でしぼんだ風船の中身が、放流したように溢れた。
「好きだよ」
翔梧は一瞬真顔になり、それからにっと犬歯を見せて「俺も」と笑った。
太腿に乗ったココの爪と肉球の感触がくすぐったい。私と翔梧の間で、ココも笑っている気がした。
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