13 家族との再会

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13 家族との再会

「お? 気が付いたみたいだな。マハトを呼んでくるから待ってろよ」  薄めを開けた瞬間、扉の閉まる音がする。嗅ぎ慣れない匂いにうっすら靄のかかった室内は、現実感のない風景だった。体を起こそうとすると左半身に激痛が走る。出来る限り今いる場所を確認すると、どうやらあまり広くない一室にいるようだった。 「グラオザーム、もっとゆっくり! 転んでしまうよ」  慌ただしく入って来たのは、やはり見間違いでも幻覚でもなかったグラオザームと、知らない男性だった。グラオザームがその者の背をグイグイと押しながらこちらに寄越してくる。眼鏡の中心をくいっと支えながら迷惑そうにこちらに来た男性とバチッと目が合った。 「久しぶりですね。元気にしてましたか? っと言っても今は満身創痍のようですけど」  そう言いながら悲しそうに笑ったその表情には見覚えがある。ローゼは朦朧とした意識で深く考えられないまま、脳裏に浮かんだ名前を呼んでいた。 「マハト兄様……」 「何ですか? どこか痛む所はありますか?」  大きく少しひんやりとした手からは薬の匂いがする。その手が額に乗せられるとローゼは細く息を吐いた。この所幼い時の記憶が引き摺り出されるように思い出されてきている。マハトの呼び名も自然と口から滑り出していた。 「ずりぃよ! なんでマハトだけ兄様って呼ばれるんだよ!」 「グラオザームは兄でないのだから仕方ないですよ」 「そうじゃなくて! 俺もムーティヒもそんな風に呼ばれなかったって言ってんだよ!」  するとマハトはまんざらでもない様子で小さくはにかんだ。 「それは兄や弟の振る舞いをしていなかったからではないですか? 王都にいる間にヒルシュ家の皆様に迷惑を掛けたんじゃないでしょうね?」  怯んだグラオザームはマハトの間では一層子供っぽく言い淀んでいた。 「ここはどこですか? あの竜はどうなりました?」 「ここはあなたの実家であるグレンツェ家の屋敷ですよ。そしてこの部屋は治療部屋です。薬を焚いているのでしっかりと効き目が出るようにあえて狭い部屋にしているんですよ。あと、あの竜についてですが、ローゼと同じように今は治療中です」 「生きているんですね。でもどうして私を連れて来たんでしょうか。竜に掴まれた時は正直もう駄目かと思いました」 「もしやあの竜は何の説明もなく、ローゼをここまで連れて来たんですか?」 「? 説明って竜がどうやって説明なんか……」  その時、バンっと勢いよく扉が開いた。 「目が覚めたか人間!」  入ってきたのは半袖短パンの少年……のような少女。見覚えのある姿にしばらく思考を巡らせていると、マハトは叱るようにコツンと痛くない拳を少女の頭に落とした。 「アニー! まだ歩き回ってはいけないと言いましたよね? その怪我を軽く見てはいけませんよ」  少女の片腕は手首から二の腕にかけて包帯がグルグル巻になっている。包帯にはうっすらと血が滲んでいた。 「こんなの怪我に入るか! ほら、すぐに行くぞ!」 「駄目ですってば! あなたもローゼも絶対安静です」 「うるさい黙れ!」  少女の腕の怪我と違和感のある特徴のある目。ローゼはその瞬間、叫び声を上げていた。 「まさかあなた、あの竜なの?」  少女は返事をする代わりにベッと舌を出した。舌先は二又に割れていた。 「もしかして、聖堂で暴れたあの侍女ね?」 「お前のせいで全部ぶち壊しだ! 責任取れよ!」 「あなた達が結婚式を台無しにするからじゃない」 「は? あのままあの人間とうちの姫が番になっても良かったのかよ」  乱暴な口振りでこちらを見透かすようにそう言われ、ローゼはどきりとしてしまった。 「あなた達は何がしたかったの? もし赤竜を蘇らせたいという願望なら不可能よ。“彷徨う心臓”を祭壇に乗せても赤竜は復活しないわ」 「そうじゃない! 姫がしようとしている事はそんな事じゃなかった。“彷徨う心臓”を祭壇に置けば赤竜を共鳴して、赤竜のいる場所が分かるはずだったんだ。でも二つに割れてしまったんじゃもうどうする事も出来ない」 「赤竜の居場所なら私知っているわ。厳密に言うとその場所を探す為にリンドブルム王国への入国をお願いしていたのよ。あなたが来たという事は許可が降りたという事でいいのよね?」 「なんでお前みたいな人間が赤竜の居場所を知っているんだ! 嘘だったら噛み千切るからな!」  思わずゾッとして毛布の端を握ると、グラオザームが威嚇するように侍女を見下ろした。 「熊ごときにそんな傷を負わされやがって。竜の名が泣くだろ」 「貴様ッ! この牙で切り裂いてやる!」  侍女がポケットを弄り、そしてすぐに焦ったように胸元やあらゆる服の間、終いには靴まで脱いで中を確認し出していた。 「あなたが所持していた宝石はこちらで預からせて頂いてます。当然でしょう? こんな場所で竜に変化されては迷惑ですからね」  侍女は悪態を吐きながら地団駄を踏むと、グラオザームは勝ち誇ったように鼻で笑った。 「あの、それでマルモア大公は今どちらに? グレンツェ領にいらっしゃると聞いていたんですが」 「確かにこちらに滞在されていますが、今は兄上と共に国境線の巡回に出ているんですよ。もうすぐ戻られると思うので、戻られたら声を掛けますね」  ローゼにはこの一年半もの記憶がない。断片的な話を纏めていくと、グラティア王女が先に目覚め母国に帰った事、マルモア大公は結婚せずにこの地にいて今もなお戦後処理の一環を担っている。そして何故竜の子が迎えに来たのか。それが最大の疑問だった。  その時、外で馬の嘶きが聞こえた。それを聞いた瞬間、グラオザームは嬉しそうに口の端を上げた。 「ようやくお出ましだな」  一瞬騒がしくなった階下の音が、どんどん近づいてきている。おそらくこの部屋に向かっているのだろう足音は、半分開いている扉の前で止まった。身構えていると、勢いよく見知った姿が飛び込んできた。息を切らしズカズカとベッドの側まで来ると、勢いよく膝を着いた。 「あの、マルモア大公、久しぶりです?」  何故が疑問形になってしまったのは、ローゼからすればそんなに前の事のように思えなかったからだった。外の匂いを纏ったユストゥスは、何かを言い掛けては言葉を噤んでいた。そしてようやく絞り出されたのは、“良かった”という呟きだった。どうしていいのか分からずにそっと肩に触れると、大きな体はビクリと動いた。 「体はどうだ? 辛くはないか? 早馬が到着した時は心臓が止まるかと思ったぞ」 「ご心配をお掛けしました。この通り元気です」 「眠り続けていた時の事は覚えているか?」 「少しは覚えています。でも一年半も経っているとは思いもしませんでした。皆様にはご心配をお掛けして申し訳ございませんでした」  ベッドの上で出来るだけ頭を下げると、力強く両肩を掴まれて顔を上げされられる。そうなるとユストゥスの顔はすぐ目の前にあった。しかし気まずそうに逸らされると、ユストゥスは勢いよく立ち上がった。 「まずはゆっくり休むといい。これからの事は後で話そう」  様子のおかしいユストゥスが気になったが、ユストゥスを見た事で無意識に安心したのか急に眠気が襲ってきた。無理をせず眠るようマハトに促されると、ローゼの意識は夢の中へと潜っていった。 「本当に目を覚ましたんだな。それなのにどうして無茶ばかりするんだ」  静まり返った部屋の中、誰かが入っていたのは分かっていたが、疲れと怪我のせいか体が動かせない。ギシッとベッドが沈み、温かい手がぎこちなく髪を梳いてきた。夢かもしれないと思う気持ちの中で、それがユストゥスの手だったらと思わずにはいられなかった。  グレンツェ家の屋敷は、ヒルシュ家の敷地よりもずっと広かった。しかしそれは田舎だからかもしれない。広大な屋敷の中には広い厩が並んでおり、軍が保有しているのでは思う程に立派な軍馬がいた。手入れが行き届いている花壇などはなく、その代わりに広い鍛錬場が用意されている。門と鍛錬場を行き来するのは、どこからどう見ても王都のような軍や騎士団などとは違い、そのどれもが無骨な傭兵に見えた。そして屋敷も王都にある貴族の屋敷とはまるで違い、全体的に黒く要塞のような作りになっており、バルコニーはなく、窓もそれほど大きくはない。ローゼは息が詰まる思いで窓の縁に立った。 「退屈ですか?」  いつもの苦いお茶を持ってきてくれたマハトは、笑いながら一緒に窓の外に目をやった。 「ああいう者達が普通に出入りしているのでローゼに庭に行く許可が出せないんですよね。というのは建前で、本音は出て欲しくないんですよ」 「もちろん危険があるのは承知しています。でもそろそろ体を動かす準備をしないと鈍ってしまいます」 「その事なんですが、本当にリンドブルム王国に行かれるつもりですか?」  不意に窓の外から傭兵達の叫び声が聞こえてくる。びくりとして視線を向けると、そこには屈託のない笑顔で笑う少年のような傭兵だった。 「よく見るとまだ若いですね。あのような少年も戦争が起きれば戦いに行くんですか?」  珍しくマハトが顔から笑みを消すと同じように窓の外を見た。 「彼よりももっと若い頃、ムーティヒ兄上は傭兵の元で暮らすようになりました」  突然の話に驚いていると、マハトは遠い空を見るよう話しだした。 「それまでのムーティヒ兄上は良く笑う優しい兄だったように記憶しています。でもある事故があってからは自分を強く律しているようでした」  その瞬間、廊下からバタバタと足音がして来る。そして盛大に転ぶ音がした。 「ははッ、だから言ったでしょ!」  転んだまだ小さい少女は後ろから来た侍女らしき女性の笑い声に、ぷうっと頬を膨らませた。泣かないだけ偉いと思うが、抱き起こしもせずに笑うはいかがなものかと二人を見ていると、こちらに気がついた女性の方がニカッと笑いながら近づいて来る。女性は珍しい格好をしていた。薄茶色の髪をきっちりと結い、侍女の格好でもなくドレスでもなく、男性のようにズボンを履いていた。あらゆる事に驚き、まじまじと女性を見ていると勢いよく手を掴まれた。 「始めましてローゼ。噂には聞いていたけどまさかこんなに可憐なお嬢様だとは思いもしなかったよ。本当にグレンツェ家の血が入っているのかい?」  昔から言われ続けてきた事、ずっと気にしている事を指摘されてローゼは握られている手を解こうとした。しかし手を掴む力は強く、ローゼが離したがっている事にも気がついていないようだった。 「え、ローゼ? お母様ずるい! 私もあくすしたい!」  握手と言えないくらいにまだ幼い少女は、母親とローゼが繋がっている手に向かって背伸びをしながら自分の手を重ねてきた。 「お母様? あの、あなた達は一体……」 「ほらほらローゼが困っているでしょう。まずはちゃんとご挨拶をお願いしますよ。アメリアもご挨拶出来ますね?」 「まさかマハト兄様の?」 「違います! この方々はムーティヒ兄様の奥様と娘ですよ」 「そんなに否定しなくてもいいじゃないか」 「否定しなかったら私が兄様にどんな目に遭わされるか分かったもんじゃありませんからね」  するとまた豪快な笑い声を上げながら、掴んでいた手をブンブンと振られた。 「すまないね。話は聞いていたから知らない仲じゃない気がしてしまってさ。あたしはムーティヒの妻のマギーだよ。この子は娘のアメリア。ローゼの姪になるね」 「ローゼ! あたしアメリア!」  背伸びして差し出された手を恐る恐る開いている手で掴むと、母親と同じようにブンブンと振られた。 「随分困惑しているんじゃありませんか?」  二人がいなくなった後、放心しているのを読まれたローゼは、隠す気にもなれなくて大きな溜息を吐いた。 「いいえ、驚いただけです。とても明るい方々のようで安心しました。きっとこのグレンツェ領の女主人としても上手くやっていけるでしょうね。……私とは大違いだわ」 「元々傭兵時代に知り合ったようですし、父上にはずっと逆らわなかったムーティヒ兄上が唯一我儘を通した結婚だったとも言えますね」 「傭兵時代って、マギーは平民なんですか?」 「平民どころか移民ですよ。彼女はリンドブルム王国から流れてきた民なんです」 「リンドブルム王国からの移民!? それって凄い事なんじゃないですか」 「こんな風な国境には稀にある事ですよ。リンドブルム王国からの移民をそのまま国内に入れる事も出来ず、かと言って送り返す事も出来ない為、仕方がなく領地で面倒を見ているのです。もうずっと昔からの事ですがね」 「それならその者達に聞けばリンドブルム王国の内情が分かったんじゃないですか? どうしてマルモア大公は私にわざわざリンドブルム王国の小説から情報を得ようとしたのかしら」 「? よく分かりませんが、リンドブルム王国の民は自国の事を口にしようとはしません。もし外に漏らせば赤竜がどこまででも追いかけてきて全てを焼き払うだろうと本気で信じているのです」 「赤竜が? まさか! あの人がそんな事する訳がありません。どちからというと無頓着だと思いますよ」 「どうしてローゼが赤竜の事を親しげに話すんです?」  しまったと思ったがもう遅い。マハトは優しそうな目の奥に、絶対に逃してはくれないだろう力強さが垣間見えた。 「色々あって赤竜に夢の中で会ったんです」 「……夢、そうでしたか。もう本当に心配しましたよ。まさか赤竜のような伝説上の竜があなたに会いに来たのかと思ってしまいました」 「まさか! そんな事になったらきっと国中大騒ぎになってしまうでしょうね。やっぱり私も少し庭に出ていいですか? マギー達も出ているみたいだし安全でしょう?」 「少しだけですよ。あまり屋敷からは離れないで下さい。後で迎えをやります、まだ本調子ではないんですからくれぐれも無理はしないように」  そうは言うものの、傷はすっかり癒え動くのに全く支障はなくマハトの有能さを体感していた。まさか真ん中の兄が治療師になっているなど誰が予想出来ただろうか。グレンツェ家の男達は戦ってこそ価値がある。体格を見る限り鍛えているようだったので、マハトも有事があれば戦場に行くのだろうが、それでもあんな風に穏やかで薬の匂いをさせているとは信じられなかった。よく見ると庭に咲くのは花ではなく、草ばっかりのように見える。そこには薬草に詳しくないローゼでも見た事のある物が幾つかあったから、きっと薬草を植えているだろう。 「ローゼ? もういたくないの?」  気がつくと横にちょこんとしゃがみ込んできたのはアメリアだった。覗き込んでくる表情はどこかムーティヒに似ていなくもない。あの無表情な兄がどうやって娘を育てているのか不思議でしょうがなかった。 「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」  するとヘラっと笑いまたどこかに走って行ってしまう。屋敷に出入りしている男達ともすっかり馴染んでいるようだった。 「昔よりも随分過ごしやすいだろう?」  腰に手を当てて立っていたマギーは、眩しいものでも見るようにアメリアを視線で追っていた。 「本当に。まるで知らない家に来たようです」 「全部あんたの為だよ」  言われている意味が分からずにマギーを見ると、アメリアを見ているのと同じような視線でこちらを見てきた。 「ムーティヒがあんたに出来なかった事をアメリアに成そうとしているのさ。そしていつかあんたがいつヒルシュ家から戻ってもいいように」 「ムーティヒお兄様が?」 「頬の傷」  そう言われて記憶が断片的に甦った事を思い出した。誰かの泣き叫ぶ声と必死に謝る少年の声。それがムーティヒの物だと今ではなんとなく思い出す事が出来た。 「なんとなくしか覚えていなくて。ムーティヒ様の頬に付いている傷の事ですよね?」 「覚えていないなら無理に思い出す必要はないさ。あの傷がまだ癒えぬ頃に、ムーティヒはあたしのいる傭兵隊にやってきたんだ。最初は領主様の子だって事は伏せられていた。でもあの頬の傷のおかげでとんでもない無鉄砲な奴が来たんじゃないかってちょっとした騒ぎになって、結果として素行の荒い傭兵達からもナメられなかったって訳さ」 「その傷はどうやって付いたんです?」 「あぁ〜、あたしもさすがに話していいのかは分からないんだが」  マギーは本当に困ったようにしばらく唸った後、パンッと手を叩いた。 「まあ知らないよりは知っていた方がいいだろ。後の事は気にするなってね! あの頬の傷はムーティヒがあんたを庇って出来た傷らしいよ。幼い頃の妹は好奇心旺盛でとにかくよく森の方まで行ってしまう子だったて言ってたね。アメリアを見ていると血筋なのかなって思うよ」  今となっては考えられないし記憶にもないが、マギーが嘘を吐くとも思えない。続きを促すように頷いた。 「ある日、ローゼが熊に出くわしたらしくて、あの傷はムーティヒが庇って出来たらしいんだ」 「熊に引っ掻かれたって事ですよね? よく生きて帰って来れたましたね」 「無事じゃなかったよ。結局見回りをしていた雇われ傭兵達がそれを見つけて熊を狩ったのさ。ムーティヒは血まみれの重症だし、ローゼは謎の高熱を出したらしいんだ。領主様は二人に酷く激高なさったそうだよ。そしてムーティヒは自分を助けてくれた傭兵団に修行に出たって訳さ」 「私のせいでムーティヒはあんなに無表情になってしまったんですね」 「あんたのせいっていうよりも、自分自身が許せなかったんじゃないかな? あたしも傭兵だったから分かるけど、守りたい奴を守れなかったらすっごく悔しいんだ。どうして自分には力がないのかって、もっと鍛錬すれば、力があればってさ」 「お父様はよくお許しになりましたね。長男ですもの、手放したりはしなそうなのに」 「それはまあ本人に聞くしかないんじゃないか? でもお父様も今はここを離れているからいつ会えるかどうか……」  そう言えばこの屋敷に来てから一度も父親から呼ばれてもいないし、姿も見ていなかった。ただ単に避けられているだけと思っていたが、マギーの話では屋敷にいないのだろう。 「お義母様の体調が思わしくなくて、こんな荒々しい場所から離れて療養しに行っているんだよ」 「具合は相当悪いんですか?」 「まああたしも数えるくらいしか会った事はないけど、多分精神的なもんなんじゃないかなってマハトが言っていたよ」  母親は気の弱い人だった。元々王都に住む貴族女性だったが、こんな辺境の地へ嫁ぐ事になり、特に母親が嫁いで来た頃のグレンツェ家はもっと男尊女卑が強い風土だったと想像するのは容易い。父親でさえそうだったのだから、きっと祖父はもっとそれが強かったはずだ。母親の記憶は本当に少しだけ。常に顔色が悪く怯えた様子で、特に自分を見つめる瞳は特にそうだったように思う。女児を産んでしまったという罪悪感からだったのか、ローゼが母親に笑いかけられた記憶はなかった。 「ほら、男どもが帰って来たみたいだね」  ムーティヒを見つけて嬉しそうに手を振っているマギーは、体格もいいしズボンも履いているというのにとても可愛らしい女性に見えた。 「そんな風に歩き回ってもう大丈夫なのか?」  馬から降りるなり、ユストゥスが肩を掴んでくる。じろっという視線こそ送ってきたが、ムーティヒが何か口にする事はなかった。 「本当にもう大丈夫なんです。それでお願いなんですが、そろそろリンドブルム王国へ旅立ちませんか?」 「歩き出したらきっとそう言い出すと思って実は下調べをしてきたんだよ。もし行けるなら今晩出発しよう」 「ありがとうございます! でもなぜ夜に? 大丈夫でしょうか」 「ここからリンドブルム王国との国境へは離があるからな。夜に出て昼前には到着する計算だ」 「そこに到着したら、リンドブルム王国からの迎えがいるでしょうか」 「その予定だ。だから十分に休息を取っておくように。いいな?」  異変はその夜にあった。出発の為に軽装に着替え、髪を一つに結ってもらっていた所で廊下が慌ただしくなる。そして扉が勢いよく開いた。 「ローゼ! 大変だ! 奴らが攻めて来たんだ!」    息を切らしながらそういうとグラオザームはガシッと手首を掴んできた。 「すぐにお前を逃がすから着いて来い!」 「奴らって誰ですか? 誰が攻めて来たんです?」 「リンドブルム王国に決まってんだろ! 偵察の兵士が進軍しているリンドブルム王国の軍を見つけたんだよ!」 「グラティア王女が王位を継いで良好な関係を築いていたはずでしょう?」 「そうさ。だからこの進軍は誰かの独断だろ!」 「それならリンドブルム王国のグラティア女王陛下に伝書を飛ばしたらいいんじゃないでしょうか」 「そんな事をしたって間に合わないさ! 攻め入られたらグレンツェのやり方でやり返すまでだ! 俺達に喧嘩を売った事を後悔させてやる!」  物凄い力で腕を引かれながら廊下を走っていると、窓にアニーが映った。アニーはスッとどこかに消えてしまう。まるでこちらを呼んでいるかのような姿にローゼはグラオザームの腕にしがみついた。 「な、なな何すんだ!」  真っ赤になり慌てたグラオザームの体が引いた瞬間、ローゼは腕を振り切りアニーが姿を消した部屋の中に入って行った。すぐに扉に鍵を掛けると、すぐにドンドンッという振動と共にグラオザームの怒鳴り声が聞こえた。 「あなた、その姿……」  部屋の窓は開け放たれ、バルコニーにはあの竜が立っていた。 『来るなら乗せてやる』  声は頭の中でする。ローゼは今にも壊されそうな扉から駆け寄ると、竜の腕にそっと触れた。包帯は破れ、腕に絡まっている。その間から塞がりたての痛々しい傷が垣間見えた。 「どこに連れて行く気なの?」  すると竜はフンッと鼻を鳴らすと尾を打ち鳴らした。 『主の元だ』  グラティア女王陛下の元に行けるなら願ったり叶ったりだ。竜に連れて行ってもらえればおそらく身分を怪しまれる事なく城にも入れるはず。迷っている間はなかった。竜の背が下げられ、その背によじ登っている時、扉で一際大きな音がする。とっさに振り見ると、扉には大きなヒビが入っている所だった。その隙間から再び斧の刃が突き刺さる。ローゼは急いで背に乗ると、背を軽く叩いた。  ふわりと赤い竜が飛び上がる。風を斬る懐かしい感覚にローゼはバルコニーを見下げた。グラオザームが飛び込んで何かを叫んでいる。ローゼは誘拐された訳ではないという意味で出来るだけ手を振ると、振り落とされないように身を低くして背に沿った。しかし竜は何故かまっすぐは飛ばずに岩山に沿ってどんどん東に飛んでいく。リンドブルム王国の王都がどこかは分からなかったが、岩山の上でない事は確かだった。もちろん声を上げる事は出来ない為、ただ上から見下ろす岩山を視線でなぞっていくと、何故か飛び出した崖に目が向いた。竜に教える為に左側を叩いてみる。首を少しだけ動かして来た赤い竜に向けて気になる崖を指差した。 『あそこか?』  ローゼはコクコクと頷くと、下降していく風に耐えながら次第に鮮明になっていく丘に驚く事しか出来なかった。  降り立った丘は、夢の中で見た赤竜の住処と酷似していた。それでも確証が持てなかったのは、夢の中では温かい日差しを浴びて青々としていた草も、飛び立つ鳥達もいない。うっすらと雪に覆われた寂しく薄暗い荒廃した丘だった。 「赤竜はもう死んでしまったのね」  なぜだかそうだと分かる。主を失った住処はまるで役目を終えたように静かに朽ちていったのだろう。侘しい風景にゆっくりと歩いて進んでいくと、ふと枯れたかのように見える木の側に寄っていった。 「その木は主が好んでいたものだ」  振り向くといつの間にか侍女の姿になったアニーが立ち、悲しいとも虚無とも取れる、物悲しい表情を浮かべていた。 「あなたの主って、赤竜の事だったの?」 「竜は竜にしか従わない。グラティアは赤竜を復活させようとしていたから側にいただけだ。でも赤竜は風に還ったのだと分かった。お前が赤竜に会った後、竜にだけ分かる感覚があった」 「アウシュヴィッツが赤竜になって飛び立った時の事?」 「おそらく赤竜はお前に出会って割れた心臓を目にした事で、グレンツェの女が産んだのは自分の子だったと知ったんだろう」 「だから飛び立ってしまったのね。アウシュヴィッツは人間とは番にならないと言ったわ。それじゃあどうしてご先祖様を引き摺っているように見えたのかしら」 「竜は愛情深い。赤竜は特に人間への愛が深かったんだろうよ。私は関わりたくないが血がそれを拒ませてくれないから困ったもんだった」  ローゼは割れた“彷徨う心臓”を木の根元に埋めると、手を合わせて夢の中で会った赤竜を想った。 「あなたみたいに竜の血を色濃く残している人はもっといるの?」  すると侍女は呆れたように小さく笑った。 「自分達もそうだろう? とは言ってもグレンツェの人間達はある罪を犯しているからな。それに気づかない限り覚醒出来ないがな」  アニーはそれ以上は絶対に話してくれない様子で、再び竜になると急降下した。上空からリンドブルム王国の王都を見せられ、そのまま大きく旋回してグレンツェ領に戻っていく。そしてグレンツェ領で激しい戦闘の音が聞こえてきた。リンドブルム王国の軍は思っていたよりもずっと多かった。しかしそれよりも驚いたのは、敵か味方か分からない戦場のど真ん中で一匹の薄赤い大きな竜が暴れていた事だった。 『ほう、覚醒したか。一番馬鹿だと思っていたが、馬鹿の方があれこれ考えずに良かったようだな』    上空にもう一匹竜が現れた事で、リンドブルム王国の軍の統率が乱れていく。それでなくても暴れまわる地上にいる竜のせいですでに戦意は喪失しているようだった。竜はふわりと戦場のど真ん中に降り立つと、一声高く鳴いた。二匹の竜の存在感に、リンドブルム王国の軍は一気に後退していく。そして何が起きたのか分からないまま、周囲から歓声が上がった。薄赤い竜はすり寄るようにローゼの元に近づいて来たが、それを竜に止められている。何度か押し合いをした後、竜はフッアニーの姿に戻った。 「お前も早く竜化を解け。さもないとお前の大事な姉を踏み潰す事になるぞ」  しかし薄赤い竜はこてんと首を傾げたまま、なおもローゼに近づこうとしていた。 「おい! 本当に踏み潰す気か!」 『戻り方が分からん。だが別にこのままでもよくないか?』 「お前は良くても周りを見てみろ。お前が動く度に死人が出るぞ」 「もしかしてこの竜、グラオザームなの?」 「もしかしなくてもグラオザームだな。私はこんな大きくて馬鹿な竜はお目に掛かった事がない」  グラオザームだと分かった周囲の兵士や傭兵達は、恐る恐るながらも竜の近くに集まっては触れようとしていた。しかし尾がザッと横に振られ、何人かが吹き飛ばされている。それほどまでに竜の姿のグラオザームは敵なしの状態だった。 「グラオザーム様、元に戻る努力をしてください。そのままの姿では屋敷にも入れませんよ。ずっと野宿する気ですか?」  それでもつーんと明後日の方向を向いたまま聞く耳を持たない姿勢でいるグラオザームに、ローゼはわざとらしく深く溜息を付いて目尻を拭った。 「ようやくグレンツェ家の方々とも仲良くやっていけると思っていたのに、あなたがそんな姿では仲良くするのは無理ですね」  その時、慌てたように身を屈めると、見てとばかりにあっという間に人の姿になってしまっていた。 「もしかして最初から自在に出来ていましたか?」 「? ははッ」 「笑ってごまかさないで下さい!」 「姉ちゃんだって泣き真似しただろ!」  言葉を詰まらせると、周囲から一斉に笑い声が上がる。そんな中、兵士達の間を縫って現れたユストゥスに抱えられて体は宙に浮いた。 「おい! 姉ちゃんに何する……」  グラオザームも有無を言わさぬユストゥスの雰囲気に飲まれ、言葉を失ってしまったようだった。荒々しく馬車に乗せられ、そのままグレンツェの屋敷に入っていく。そして出入り口から一番近い応接間に入って行った。掴まれていた腕は放り投げられるかと思ったが、以外にもユストゥスはそっと手を離し、椅子に座らせてくれた。そして黙ったまま目の前に跪き、両手をぎゅっと握られた。 「あの、マルモア大公? どうなさいました?」 「……あなたはなぜいつも勝手な事ばかりするんだ」 「聖堂での時も、今もそれが一番良いと思い行動しました。ちゃんと割れた“彷徨う心臓”は赤竜の住処に届けて参りましたので、きっと少しは心穏やかにお過ごし下さるのではないでしょうか」 「そんな事はどうでもいいんだ!」 「どうでもいい、ですか?」 「いや! そうではない! どうでもいい事ではないんだが、あなたがそこまで危険を犯す必要はないと言っているんだ」 「でも今回は私だからあの宝石は反応したんだと思います。自分で言うのもなんですが、私だから成し遂げられた事だとも思っています! そうでなければきっとずっと赤竜の魂は彷徨っていた事でしょう」 「その話は後でちゃんと聞こうか。だが今はそうではなくて、あなたが危険な事をするのは困ると言っているんだ」 「何故ですか? まさかあなたも女がでしゃばるなとそう仰るのですか!? もう結構です!」  立ち上がろうとした瞬間、ローゼは何故かユストゥスの腕の中にすっぽりと収まっていた。何が起きたのか訳が分からずにいると、深い溜息が落ちてきた。 「すまない。私は自分の気持ちを言葉にする事が苦手らしい」 「らしい、ですか?」 「……苦手なんだ。それにこの気持ちにも最近気付いたばかりだし、ヴィントに言わせればずっと前からそう見えていたと言われたが、自覚する事にも慣れていないんだ」 「あの、マルモア大公? 何を仰っているのか私にはさっぱりなのですが」  きつく抱き締められているからこそ分かる事がある。ずっと大きな体は何故か震えていた。 「つまりだな、俺はあなたを大事に想っているから危険な目には遭ってほしくないんだよ」 「ありがとうございます、そこまで心配して下さるなんて光栄です」 「……もしかして伝わっていないな?」 「伝わっておりますよ。マルモア大公が部下の方々やご友人を大事にされているのは、そばで見ていればよく伝わって来ていましたから」  その瞬間、抱き締められていた体がグイッと引き離された。目の前には真っ赤なユストゥスの顔がある。腕を掴んでくる力は強かったが、しかし真剣なユストゥスの表情を見たらそんな事はどうでもよくなっていた。 「一度しか言わないからよく聞くように。いいな? ユストゥス・モーント・マルモアはローゼ・ヒルシュを愛しています」 「……、……」 「ローゼ? 聞いていたか?」 「……」 「おい大丈夫か?」 「私を? 友人に向けるそれではなくてですか?」 「当たり前だ! ローゼ、あなたを愛している。その、返事は……」  言い切る前に、ローゼは真っ赤なユストゥスに抱き付いていた。
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