1 義弟の恋は前途多難

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1 義弟の恋は前途多難

「……アレンは?」  蝋燭の明かりだけに照らされた広い部屋で、物音を立てないようにして椅子から立ち上がったローゼは不意に袖を掴まれて振り向いた。ベッドには先程まで熱でうなされていた義弟のブリッツの意識が戻ったようで、薄目を開けこちらを見上げていた。目は赤く充血し、額には濡れた前髪が張り付いている。ローゼはすぐに椅子に戻るとそっと髪を上げてやり、裾を掴んでいた手を握り返した。 「気分はどう? 二日も意識がなかったのよ」 「アレンは帰ってしまいました? 僕が早く目覚めなかったから」  義弟の声が僅かに震えている。力なく握り返してきた手を両手で包むと、小さく頷いた。 「警備の交代の時間だからと少し前に帰ったばかりよ。あなたの事を凄く心配していたわ。さっきまでここにいたのよ」 「次はいつ来るって?」 「どうかしら。アレンもあれで騎士団の第三隊長だから忙しいと思うの。朝になったら様子を見に行って、次はいつ来れるのか聞いて来るわね」  すると首は力なく縦に動いた。 「忙しいのは分かっているんです」 「きっとアレンの事だからブリッツが目を覚ましたと言ったら飛んで来るわよ」 「……そうかな。そうだといいな。姉様、お願いします。アレンを見守っていて下さいね?」 「大丈夫よ、何も心配しないで。さあもう休んで」  安心させるようにそう言いながら掴んでいた手を撫でていると、ブリッツはまたすぐに眠りについてしまった。  部屋の前で鉢合わせた執事長のドナーは、手に持っていた桶をこぼさないようにとっさに抱えた。リネンを冷やす為の水を替えに来たのだろう。ローゼもぬるくなり始めた桶の水を新しくしようと部屋を出たのだ。しかしその桶を受け取ろうとした所で桶はぐいっと後ろに引かれてしまった。 「ドナー? 桶をよこして頂戴」  後ろから桶を取ろうとしてドナーは更に後ろに下がった。 「今晩は私が坊ちゃまについておりますのでお嬢様はもうお休み下さいませ。この二日ろくに眠っていないではないですか」 「私はまだ大丈夫よ。それにさっき少しだけどブリッツが目を覚ましたの。きっとまた目を覚ますだろうからそばにいてあげたいわ」 「お気持ちは分かりますがこのままではお嬢様も体を壊してしまいます。それに意識が戻ったという事は熱が下がったという事でございますね。もう大丈夫でしょうから、やはりお嬢様はお部屋でごゆっくりとお休み下さい。私はお嬢様のお体も心配でございます」 「それならおじいちゃんのあなたの体も心配よ。でもそうね、あなたの言う通りだわ。少しだけ眠って来くるから、もしブリッツが目を覚まして呼ぶような事があればすぐに起こしに来て頂戴」 「旦那様へのご報告は明朝に致しましょう。もう心配する事はないでしょうし、今お声を掛けても皆様が寝不足になってしまいますから」 「そうね、それがいいわ」  ローゼはドナーの肩にそっと触れると、そのまま自室へと戻って行った。  カーテンの隙間から差し込む光から無意識に逃れるようと毛布を引き上げた時だった。勢いよく開いた扉から走って来る足音がする。その瞬間、体の上に激しい衝撃がのしかかってきた。 「姉様! もうお昼ですよ! 起きて下さい!」  ベッドの端に勢いよく座ったのは、昨晩まで高熱でうなされていたブリッツだった。嘘のように元気になったブリッツはすでに身だしなみを整え終え、やや痩せた頬には血色がほんのり戻っていた。濃い茶色の癖のある髪がふわりと揺れ、ベッドの横にゴロンと倒れた。 「すみません姉様。僕のせいで随分無理をしたのでしょう?」  横たわりながらローゼの白金色の毛先を弄ぶように指の先に絡めているブリッツは、しょんぼりとした表情で言った。シャツに蝶ネクタイ、ベストという格好は十六歳にしては幼いのかもしれない。でも小柄なブリッツにはとても似合いで、それでいて何より可愛らしかった。 「姉弟で何してんだお前ら」  扉を叩くノックと共に立っていたのは立っていたのは騎士団第三隊長のアレンだった。高い身長に目の高さで切り揃えられた前髪は、邪魔そうに目にかかり、扉に寄り掛かったまま腕を組んでいた。団服のジャケットを肩に掛けて胸元の釦が三つも開いている姿はどう見ても不良騎士そのものだった。 「アレンッ!」  アレンの姿を見るなりブリッツはベッドから飛び起き、目の前に走っていく。ついさっきまで気怠そうにしていたアレンだったが、ブリッツが起き上がった瞬間には足を踏み出していた。身長差は頭一つ分程。それでいて訓練や実践で日々体を動かしているアレンとは違い、ブリッツの体の線はローゼよりもマシ程度の華奢振りだ。その腰にアレンの手が支えるように回った。 「病み上がりなのだからあまり無理はしないようにね」 「すみません姉様。気を付けます」  アレンのシャツをキュッと握り締めたブリッツはしょんぼりしたように言った。 「ようやく元気になったんだから少しくらい好きにさせてやれっていつも言ってるだろ」  アレンはブリッツを宥めるようにして肩を抱きながら連れて、部屋を出て行ってしまった。 「ほんっとうに過保護なんだから」  独り言を言いながら一人でも着替えられるワンピースに袖を通していく。侍女に着替えを手伝って貰う程のドレスを着るのは夜会や舞踏会に参加する時だけと決めている為、クローゼットには一人で着られる服が取り揃えられていた。しかしそのどれもが決して貧素な物ではなく、義父が仕立て屋を呼んで特注で作らせる為、機能性だがお洒落だと茶会に参加した時はいつも女性陣に褒めちぎられるのだった。 「夜通しブリッツの事を看てくれていたから寝坊は目を瞑るとして、あなたったらまたそんな格好をして。わざとみすぼらしい服を着てヒルシュ家の権威を貶めるつもりなの?」  先に昼食の席についていた義母はわざとらしく頭を抱えながら首を振った。貴族の家では珍しいかもしれないが、皆で食事を取る時は丸いテーブルに座り互いの顔を見ながら食事を摂るというのがヒルシュ家の決まりだった。ローゼは義母の高く結い上げ巻き貝のように仕上げた髪型が揺れるのではないかと内心ひやりとしながら席に着くと、そんな義母の肩を優しく擦りながら義父は困ったように笑っていた。 「お母様を許してやっておくれ。ブリッツの事同様にお前の事を心配しているだけなんだよ」 「分かっております。申し訳ございませんお父様、お母様。でも今日は図書館に向かうので楽な服装が良かったんです」  王城に行くというのにいつもより装飾の少ないワンピースを選んだのが気に食わなかったのか、義母はわざとらしく溜息を吐いた。 「図書館とはいえそんな風に気を抜いた格好で行くのは認められないわよ!」  元々素朴な顔の義母の顔立ちには化粧が良く映え、迫力を増して迫ってくる。ローゼは塗りたくった義母の顔を眺めながらドナーの淹れた紅茶に口を付けた。 「お母様、一つ申し上げても宜しいでしょうか」 「なんなの。勿体つけずにおっしゃいな」 「口元にヒビ割れが……」  その瞬間、一気に立ち上がった義母は口元をハンカチで押さえると侍女を連れ去って行ってしまった。 「そうお母様を虐めてやるな」 「虐めるだなんて誤解です。私は本当の事を言ったまでですよ。それにしてもどうしてお母様はあんなに、なんというか個性的なお化粧をなさるのでしょうか。元々のままで十分にお美しいのに」  そう言いながら一息つくと、そこにいた男性陣全員の視線が向いている事に気がついた。義父もブリッツも、ちゃっかり同席しているアレンも、そして少し離れていたドナーは何も聞こえていないような完璧な執事振りを発揮している。笑いたいのを堪えているのか、アレンの頬が僅かに引き攣っているのが視界に入り、ローゼはテーブルの下でアレンの足目掛けて踏み抜いた。 「いったーー! 誰ですかもうッ!」  びくりとして紅茶を吹きそうになったのと同時にブリッツがテーブルの下を覗き込む。とっさに足を引いたが、どうやらアレスの足だと思って踏んだ足は伸ばしていたブリッツの足だったようだった。我慢できなくなったのかアレンが小さく吹き出す。そして笑いをごまかすようにテーブルの下を覗き込んでいた。 「ごめんごめん! 間違えて足を動かした時に踏んじまった。ごめんなブリッツ」 「もうアレンか。気を付けてよね」 「本当に大丈夫か? 一応医者に見てもらった方がいいんじゃないか?」 「大丈夫ですってば。こう見えても骨は丈夫なんです」 「一介の騎士がヒルシュ伯爵家の嫡男に傷を付けたら大問題よね、アレン卿」 「ははは。本当にもうそれはそうですね。申し訳ございませんでした。ブリッツ坊っちゃん」 「やめてよ、変な呼び方しないで! 姉様もアレンをからかうのは止めて下さい!」 「それにしてもお前達は本当に仲がいいな。孤児院を訪問した時からだからもう十二年も経つのか」  義父がアレンが家族のように共に食事の席に着き、気安い言動を許しているのは訳があった。  ローゼが子供の頃、貴族の義務である慈善活動の一貫でヒルシュ家が長く続けている孤児院訪問での出来事だった。義父がローゼを連れて行こうとした時、まだ四歳だったブリッツも一緒に行くと言って聞かない日があった。いつもならちゃんと言う事を聞く子だったし、体調を崩したばかりだった為連れて行く訳にはいかない。それでもブリッツの硬い意志に根負けして共に孤児院を訪問した日、アレンと初めて言葉を交わした。ローゼもアレンも互いの存在は知っていたが、年の近い異性に対して妙によそよそしくなる年頃だったせいか、何となく苦手意識がありわざわざ近づく事もなく今まで三度訪問していたが目すら合わせた事がなかった。 「まさかあの時はブリッツが迷子になるとは思いもしなかったからな。本当に今も昔も手の掛かる奴だよ」  そう言ってアレンの骨ばった大きな手がブリッツの柔らかい髪を撫で回している。その光景をやや真面目な顔で見ていた義父は、小さく溜息を吐いた。 「あの時、手分けして探しても見つからなかったブリッツを見つけてくれてアレンには、今でも本当に感謝しているんだ」 「や、やめて下さい旦那様! 俺の方こそ本当に感謝しているんです! あの後屋敷で面倒見てもらって、それだけじゃなく学校にまで通わせて下さいました。そのお陰で平民出身の俺なんかが騎士団にも入れて、本当に感謝してもしきれないくらいなんです」 「いつも言っているが、その“なんか”というのは止めなさい。騎士団には自らの実力で入れたのだよ。市民兵団で着実に実力を伸ばし、合間を縫って勉強にも勤しんだからだ。何より命を掛けて戦争にも行き手柄を立てたからこそ、今の地位に就けたのだよ。第三部隊の隊長にまでなっておいてなんか”と言うのは、お前を選んだ色々な人々すら蔑む言葉になってしまうからね。もっと自分に自信を持つんだ」 「はい、旦那様」  アレンは義父には従順で素直だった。もちろん人生の選択をする時には常に後見人である義父の存在があったのだから、仕方がないと言えば仕方がない。それでもアレンの表情や言葉から義父を敬愛している様子が伺える事に、ローゼは嬉しさを感じていた。 「今日は丁度皆が集まっていて良かったよ」  義父は徐ろに胸元から二通の手紙を出してきた。テーブルに置かれた二通の封蝋を見て、義父以外の三人は無言のまま視線を合わせた。  一通目は六角形の細工を現した宝石と王冠が描かれた王家紋章。そして二通目は剣が二本描かれたグレンツェ男爵家の紋章だった。 「珍しい組み合わせですね」  何でもない振りをして聞いたつもりだったが、緊張感は隠せなかった。 「王家からの手紙には王家主催の祝賀会への招待状だ。日程は今日から十日後だ。リンドブルム王国との戦争が始まってから戦後処理までの九年間を戦地で過ごされたあの英雄が戻られたのだから、祝賀会が開催されるのは当然と言えば当然だろう。一年前の祝賀会は主役がいなかったと言っても過言ではなかったからね。アレンはもうお会いしたのかな?」 「マルモア団長が戻られた時に騎士団で帰還のお出迎えをさせて頂きましたが、お姿を少しだけ拝見しただけでした。それにマルモア団長は多忙なお方ですから、戻られてからも騎士団のお仕事に加え、大公としてのご公務でかなりお忙しく動かれていたようです」 「戦地から戻ってもそんなに働いておられるのだな。何やら耳が痛い話だよ」 「いやいや旦那様もお忙しくされていますよね? 尚書長官が休みを取らないと王城で誰かが嘆いていましたよ。どうかくれぐれも無理はされないで下さい。旦那様がお倒れになったらヒルシュ家は終わりなんですから」  アレンの言う事は本当だった。ヒルシュ伯爵家は代々尚書官の任に就いている。王の秘書官とも呼ばれる尚書には繊細な仕事が多く、特に機密が多い為に相談出来る者がおらず精神を削がれる仕事の代表とも言える。いつもにこやかな表情で忘れがちになってはいるが、その激務が果たして体の弱いブリッツに出来るのかという不安はヒルシュ家全体に渦巻いていた。 「アレンも苦労して手に入れた立場なのだから、常日頃から行動に気を付けて足元を掬われないようにするのだぞ」 「……肝に命じます、旦那様」 「それでもう一通なんだが」  なんとなく避けていたもう一通の方に意識を向けざるおえなくなり、その一通に恐る恐る目を向けた。 ーーグレンツェ男爵家。  ローゼが生まれ、七歳までの歳月を過ごした家の名だった。 「この度、祝賀会に参加する為にグレンツェ男爵家の皆さんも王都に来る事になったんだ。これはその知らせと王都へ来た際にはぜひこの屋敷に滞在したいという希望が書かれていたよ」 ーーグレンツェの人達がここに来る? 「……ゼ? ローゼ?」  アレンに肩を揺すられ、すぐに平静を装ったつもりだったがここにいる者達の前では無意味のようだった。心配そうにこちらを見てくる義父と、今にも泣き出しそうなブリッツ。そして同じく眉を顰めたアレンに無意味だと分かっていても無理に笑顔と作ってみせた。 「それではグレンツェ家の方々が滞在する為に準備をしないといけませんね」 「その期間なんだがね、母様とローゼはうちの領地に戻る事も出来るがどうしたい?」 「……それは、お父様はグレンツェ家出身のお母様と私がいたらご迷惑という事でしょうか」  言ってハッとしたが義父は驚いたように目を見開いた。 「ッ、申し訳ございませんお父様」 「分かっているよ。お母様もグレンツェ家を離れて久しいし、グレンツェ男爵……私も義弟とは疎遠だからね。だが今更会ってどうという事もないだろう。それでローゼはどうしたい? 久しぶりに父親に会いたいかい?」 「私の父親はお父様お一人です!」 「ははッ、ありがとうローゼ。でも私は当初のグレンツェ男爵との約束を破ってしまっているし、このままではローゼを連れて帰ると言われかねないだろう。それならここには居ない方がいいのかもしれないと思ってね」 「連れ帰るって、今まで一切音沙汰のなかった人が姉様を連れて行ける訳ないじゃないですか! それに約束って……」 言い掛けてブリッツが止まる。そして顔を歪めた。 「それってもしかして僕が生まれたからですか? 僕が生まれたせいでヒルシュ伯爵家を継ぐはずだった姉様が来た意味がなくなってしまったから?」 「お前が気にする事ではないよ。お前は私達が望んで生まれた子なのだからね。それに私はローゼが来てくれた事でお母様の心的な不安が軽くなり、ブリッツを授かったと思っているんだ。この際だから言っておくがね、ローゼには感謝しているし本当の娘だと思っているよ。だから出来うる限りの事をしたいと思っている事だけは忘れないでおくれ」  感謝しているのはこちらの方だと思ってはいるのに、今は言葉にする事が出来なかった。 「グレンツェ家からはどなたがいらっしゃるんですか? 俺は戦争に行っていた間にグレンツェ家の方々に何度かお会い致しました。あの時は下っ端だったので言葉を交わす事はありませんでしたが、きっと今回の滞在中はお役に立てると思います。ですのでどうかその期間は俺を昔みたいにここに置いてもらえないでしょうか」 「実に心強い申し出だが、アレンももう役職がある身なのだからそんな勝手は許されないだろう。こちらは何とか乗り切るから大丈夫だよ。グレンツェ家からは、グレンツェ男爵とご長男のムーティヒ殿、三男のグラオザーム殿がいらっしゃるようだ。グラオザーム殿はローゼがこちらに来てからお生まれになったから初めて会う事になるね。確か十七歳になられたはずだよ」 「ムーティヒ様とグラオザーム様ですか。マハト様はいらっしゃらないので?」 「全員が来てはグレンツェ領の指揮を取る者がいなくなってしまうからだろう。今は戦争していないとはいえ、あそこは我が国の最重要の場所だからね」 「旦那様にお伺いしたいのですが、グレンツェ男爵が褒美として昇爵するという噂は本当でしょうか」 「……そんな事は聞いた事がないが、現にそうだったとしても私が話せる訳がないだろう。アレンも子供っぽい事を聞くのだな」  ローゼは堪らずに席を立ち上がった。 「お話の途中で申し訳ありませんが図書館に返し忘れた本がありますので失礼致します」 「あ、ちょっと待てよローゼ! またなブリッツ!」  義父の許可を貰う前に立ち上がるとローゼは部屋を足早に出て行った。後ろを追い掛けて来るアレンに振り向きもせず、無意味と分かっていても足を早めた。 「なんでアレンまで出て来るの? 私は本当に図書館に行くだけよ」 「俺ももう王城に戻るんだよ。ついでだから送ってやる」  ぶっきらぼうなアレンは、それでも気を使っているのか自分の馬には乗らず、ローゼが乗る馬車に一緒に乗り込んできた。 「ここに来たばかりの頃は随分喧嘩もしていたが、あの二人は良い友人になったようだな。お前もアレンを兄のように慕っているし、本当にあの時アレンを引き取って良かったと思っているのだ。ブリッツもそう思うだろう?」 「もちろんです。僕も姉様とアレンがいて本当に幸せだと思っていますから」  ブリッツは窓から二人を乗せた馬車が出ていくのをじっと見つめていた。
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