逃れる者

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     三  勝負が始まったのは、昼過ぎだった。  起家(ちーちゃ)は石神で、南家は正夫、そして藤岡、西村という並びだ。  東一局は、藤岡と正夫で西村をアシストし、速攻で石神の親を落とした。 「こりゃきついですなあ」  親を落とされた石神が言った。三人で組んでいることは、すでに石神もわかっているようだった。  石神の後ろには、薄汚れたボストンバッグが置かれている。どうやら宿を引き払ってきたようだ。こうなることを、事前に見越していたのかもしれない。確かに石神は強いが、それゆえにひとつの場所に長く留まるのは難しいだろう。  次局以降も、藤岡はアシストに徹した。石神のリーチは、すべて正夫が一発を消した。それでも、石神はすり替えを遣い一度はアガリをものにした。技を遣ったことはわかっていても、やはり見抜くことができない。あまりの鋭さに、正夫も驚きを隠せない様子だった。  一回目の半荘は、西村がトップ、二着が正夫、石神が三着で、藤岡はラスだった。石神を浮上させないためには、自分を犠牲にするしかなかった。今日は、とにかく石神を潰すのが目的だ。多少の負けは、最初から覚悟している。  二戦目以降も、藤岡は西村と正夫へのアシストを主眼にしつつ、場面によっては、自分がアガることもあった。  石神はダマテンで構え、自分の山が残っているうちにアガるようになった。なるべく技を遣わせないよう、西村は石神の山が残り少なくなってきたらすぐ自分の山にくっつけるようにした。連携もあって、石神に三連続ラスを押しつけることができた。  四戦目が終わり、場替えとなった。 「今回で終わりますよ」  下家の石神が言って、息をついた。  傷が浅いうちに、撤退を決めたのか。藤岡は、対面の西村と上家の正夫を見た。二人とも、眼で(うなず)いた。  さすがに苦しいのか、石神の額には汗が浮かび、顔の皺はいっそう深くなったように見える。それでも、三人が組んでいることに対して文句を言ってこないあたりは、見あげたものだ。おそらく、石神はこういった場面を何度も経験しているのだろう。  最後の半荘となったが、手を緩めるつもりはなかった。石神の起家はあっさりと正夫が落とし、その後は小場が続いた。  東ラスの親番で、藤岡は積み込みをした。初歩的なドラ爆弾。サイコロも狙った通りに五を出した。石神が今回で帰るのなら、少しでも負けを減らしたかった。  ドラはあらかじめ仕込んでおいた四筒で、配牌から四枚ある。六巡目まで引っ張ってから、暗カンした。 「ドラカンかよ」  西村が呟いた。藤岡は無言で新ドラをめくった。新ドラは場に三枚見えている(ぺー)で、特に意図はない。ただ、裏ドラの二枚は三筒を仕込んである。  七巡目でテンパイし、藤岡はリーチを打った。  ②②四五六七八111 暗カン④  待ちは三六九萬(サブローキューマン)。裏ドラが八枚なので、出アガリでも数え役満になる。西村と正夫には、すぐにサインで教えた。そして、次のツモに六萬がいることも確認済みだ。  石神が無筋の七萬(チーマン)を切ってきた。西村も正夫も現物を切ったが、正夫が切った二索(リャンソー)を、石神がポンした。六萬は西村へ流れ、一発はなくなった。やられた、と思いながらざっと山を見回した。藤岡のツモ筋に待ち牌がいるのは、六巡先だ。  こちらをチラリと見ながら、西村は石神に対しても無筋の六筒を切ってきた。  石神の手は一見タンヤオ模様だが、自風の(なん)暗刻(あんこ)で持っている。藤岡の現物でも切りにくくなったが、親に大物手をアガられるよりは、石神に安手でアガって欲しい、という気が起きたのかもしれない。この半荘で帰る石神を倒しに行く意味は、もう薄れつつある。西村も正夫も、自分の懐を優先するようになっても不思議ではない。  そもそも、負けを減らそうと積み込みをしたのは自分だ。ドラを暗カンまでしてのリーチは、失策だったか。後悔しても仕方がない。アガればいい。それだけのことだ。  二巡後に、石神がテンパった。待ちは五八索(ウーパーソー)。西村も正夫も五八索をすでに切ってはいるが、再び持ってきた時もためらいなくツモ切るだろう。  西村が三索(サンソー)をツモ切り、正夫は九萬(キューマン)を引いたが、当然切ることはなく、四索を切った。  藤岡は四枚目の北をツモ切った。石神のツモは、九萬。藤岡は息をひそめて念じた。 (切れよ。無筋の七萬も押してきたじゃねえか。切っちまえよ……) 「失礼」  断りを入れて、石神はこちらの手牌を見てきた。石神は、河ではなく、手牌を見ている。まさか、この二日間で、石神もガン牌を(おぼ)えたというのか。藤岡は唾を呑みこんだ。  さらに山を確認すると、石神は雀頭の二萬(リャンマン)を切った。現物ではないが、藤岡の河には伍萬(ウーマン)が切られている。石神は、九萬を重ねるつもりだ。 (切らない……。完全に読まれてるのか)  その九萬が二巡後に重なり、再び五八索待ちで石神が張り返した。ただ、一巡前に正夫が五索を切っている。残り枚数は少ない。  西村も、正夫も、五八索を引くことはなかった。  藤岡は、ゆっくりと息を吐きながら、山の三萬(サンマン)に手を伸ばした。  牌の背を見て、藤岡の手が一瞬止まった。 (違う! 三萬じゃない……)  山にいたのは、三萬ではなく(ちゅん)だった。ツモはすでに石神の山に入っている。うかつだった。いつの間にか、すり替えられていたのだ。六巡目の石神の河に、切ったはずのない三萬があった。そこにあった中と取り替えたのだろう。気づけなかった。石神の顔を見ながら、藤岡は中をツモ切った。  石神の次のツモは、四枚目の五索で、赤だった。 「ツモ。七本十三本」  アガリ形と河を見て、正夫は大きな眼をさらに見開いた。九萬を引き二萬のトイツ落としで迂回、九萬を重ね再びテンパイしたのは誰の眼にも明らかだった。  とんでもないやつだ。西村の表情も、そう言っている。  ――南入した。  前局を引きずってか、三人の連携はうまく噛み合わなかった。親の石神に跳満の二枚オールをツモられ、大量リードを許すことになった。  きっかけを作ったのは自分だ。あのドラカンリーチで、すべてが狂ってしまった。忸怩(じくじ)たる思いとともに、藤岡は奥歯を強く噛みしめた。  一本場、配牌を取り終えた直後に、石神がぶっこ抜きを遣った。全員が理牌(りーはい)のため視線を落とす、その一瞬を狙われた。  通常、ぶっこ抜きは不要牌二枚を上下に重ねた一幢(いーとん)分を右手で山にくっつけ、左手で山から一幢を持ってくるのだが、右腕がない石神は左手の中だけでスライドするように入れ替えた。さすがに動作が大きく、これまでのすり替えと違い眼で捉えることはできた。それでも、見事な手並みについ見とれてしまった。ぶっこ抜きは左手芸とも呼ばれるが、石神のぶっこ抜きは、まさに左手芸と呼ぶにふさわしい鮮やかなものだった。  西村は、理牌に夢中でまったく気づかなかったようだ。正夫と眼が合って、互いに苦笑した。現場を押さえられなかった以上、文句はつけられない。石神も、三人で組んでいることに文句は言ってこないのだ。  石神が持ってきた牌は、二枚とも中だった。手牌には(はく)がトイツ、さらに発を暗刻で持っている。白と発は正夫と西村の山から取り出したのでまったくの偶然だが、これで大三元の種が揃ってしまった。  これまでにも、石神は自分の山にいろんな仕込みをしていたのだろう。配牌で白と発が揃っているのを見て、今回は中を抜いたのだ。  第一打、石神が南を切ると、南家の西村がすぐさまポンして、白を切った。その白を、石神が鳴いた。 「親の一鳴きかあ。怖いねえ」  正夫が、それとなく牽制した。中は藤岡の手に一枚ある。残り一枚の中は、上ヅモにはいない。王牌に寝ていてくれればいいが、そうでなければ自分か西村がいずれ中を引くことになる。ドラの一索をトイツで持っている西村は、中を持ってきてもすぐに切るだろう。なんとしても、最後の中は自分が引きたい。   正夫の手には発が一枚ある。ぶっこ抜きを見ている以上、簡単に切ることはないだろうが、発はすでに石神が暗刻で持っている。  発は安全だということも、中を切るなということも、サインで伝えるわけにはいかない。三年かけて憶えたガン牌は、絶対に知られてはならない秘密だ。この局は自分か正夫が中を押さえ、西村のアガリに期待するしかなかった。  三巡後、西村が五筒を引き赤五筒に重ねトイツにすると、サインを出してきた。 《一索か五筒を鳴かせろ》  五筒は石神がトイツで持っている。少し悩んだが、藤岡は手の内から一索を切った。口の端で笑いながら、西村がポンした。ダブ南ドラ三赤、跳満のイーシャンテンだ。  赤⑤⑤36六七八 ポン1 ポン南  この鳴かせが裏目となった。一巡後、西村が中を引き、あっさりツモ切った。 「ポン」  晒された白と中を見て、さすがに西村の顔にも緊張が走った。だがもう遅い。発は配牌から暗刻で、石神は六九索待ちで大三元をテンパイした。  発発発⑤⑤78 ポン中 ポン白  西村も二つ副露(ふーろ)しているが、まだイーシャンテンだ。三索か六索へくっつけば、西村もテンパイする。索子の五から八を引いて六索へくっつけばいいが、一から四を引いた場合は、六索が出て西村に放銃となってしまう。  テンパイ気配を察し、正夫も慎重になった。九索を引いたが、当然切ることはない。藤岡は安牌を増やすため、無筋の中張牌を切った。  西村からは、五筒を鳴かせろというサインが出ていた。単騎も辞さないということだろうが、五筒は石神がトイツで鳴かせることはできない。  石神から正夫まで、ツモ切りが続いた。  藤岡の切り番。山を見ると、次の石神のツモは六索だった。  ここまでだ。石神にツモらせれば藤岡の負担は減るが、西村と正夫も点棒と役満祝儀を払わなければならない。石神は負け分のほとんどを取り戻し、西村と正夫は勝ち分を減らすことになる。  少し息を吐いて、藤岡は九索を切った。  途中までうまくいっていた連携が乱れたのは、自分の積み込みが原因だ。その責任を取るというわけではないが、今日は自分のひとり負けでいい。役満祝儀は出アガリで二万円、ツモなら一万円オール。石神を負かすというところまではいかなくても、思惑通りにはさせたくなかった。金は取り返せるが、矜持は取り返せない。  少しだけ間を置き、石神がロンと発声し手牌を開けた。なぜ、という疑問の表情を浮かべている。  石神から眼をそらさず、藤岡は点棒と祝儀を支払った。
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