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ボクは深呼吸をした。 少し緊張した面持ちで店内を見渡し、外が眺めやすい窓際の席に座って一安心する。額から吹き出る冷汗を袖で拭い、テーブルに視線を落とした。 「いらっしゃいませ。注文よろしいでしょうか? お決まりになりましたらそこにあるボタンで呼んでくださいませ」  そう言いながら長身のウェイターがメニューをテーブルの上に置き、軽くお辞儀をして厨房へ戻っていく。 ウェイターの視線を少し気にしながらもメニューを開き、今日こそちゃんと頼んでやると意気込む。 大袈裟ではあるが、どうしても意気込まなければいけないのである。 今までの人生でファミレスに三回ほど行った。今日を含めて三回だ。そのうちの一回はコーヒーを頼んだ。いや、正確にはコーヒーしか頼めなかった。別にコーヒーが好きなわけでもなく、もちろんお金がなかったわけでもない。ただ「ファミレスに入ると緊張しすぎてメニューが読めなくなる病」なのだ。だから、とっさにコーヒーと言ってしまった。 は? と思うことだろう。実際ボクも過去の不甲斐ない状況を思い返し、自分に殺意を感じた。しかし、その時はそんなことで悩んでいられない。とにかく必死だった。注文をしないでファミレスに居座る自分に焦り、どうしてもメニューの文字が視点に定まらず読めない。もう焦るだけ焦った。結局メニューを見るのを止めてコーヒーくらい何処にでもあるだろ精神で注文するしかなかったのだ。それが二回目の出来事だった。 初めての時は…フェードアウトした。詳しく説明すると、まず店内に入って椅子に座り、メニューを開いた。が読めないことを初めて知ったショックでパニック。さり気無く店外へ走り去った。誓いましたとも、そのファミレスには一生行かないと。 ただ、このような不甲斐なく挙動不審な行動には訳がある。仕方がない。大目に見る必要がある。 実は…つい最近まで引き籠っていましたので…それも五年間。ふー、あと少しで小学校生活一回分の時間を損するところだ、危なかった。 ボクの空白の五年間は外に出ることはおろか、家族意外の人と接触する事もせず、ひたすら自分の部屋に籠っていた。姉からはモグラと呼ばれ、外の空気も景色も人混みも、全てが恐怖でしかなく、この世で落ち着いていられる場所は自分の部屋しかなかった。そんな状況ではあったものの、このままではいけないってことはわかっていたし、ボクの人生もまだ先が長い。これから先もずっと親のスネをかじって生きていくわけにもいかない、まずは外に出ることが最優先…。自分なりに試行錯誤し、条件付きだけど外に出るようになった。 めでたし、めでたし。…とはまだ行かないけど。 まぁ、外に出ることができずに悩んでいたくせに、ただ外に出るだけなので達成感もなにもなく、今では本当に頑張っていたのかさえわからない。でも頑張ったんだ…的な感覚が体の指先から放出されていた気がする。 だから、外での生活は不慣れなのだ。 メニューを開いて五分、今日はメニューが読める、その事だけで少し嬉しい。サーロインステーキに、キノコのハンバーグ、イタリアンならペスカトーレ、和食ならヒレカツと海鮮・カキフライ御膳、デザートには黒糖プリンとヨーグルトのパフェ、どれもとても美味しそうだ…でも頼もうとは思わない。 なぜなら、外に出ているという時点ですでに膨大な疲労感が体に蓄積されている。顎で咀嚼して飲み込む作業は困難きわまりないのだ。 だから、ドリンクバーだけを注文する。 テーブルの隅に置かれた呼び出しボタンを見て、深呼吸をする。そしてボタンを押す前にシミュレーションを丹念に繰り返した。 今度は太めのウェイターがこっちに向かって歩いて来る。そしてボクの座る席の前まで来て立ち止まった。 「ご注文、よろしいですか?」 ボクはテーブルに視線を落したまま、あくまでもウェイターの目を見ることなく言ってやった。 「あ、えっと、あのドリンクバー…ください」 ふー、か細い声だけど言えたよ。 ウェイターがボクの注文したものを復唱し、そのあともゴチャゴチャと何かを説明をして戻っていった。 この時点でボクのMPは空っぽになり、HPは残り5。 厚いガラスを透して外を眺めると、まだ暗い。ファミレスに来る途中に感じた初夏の温い空気も微妙にやる気がなくなる匂いも、意外と好だ。街頭の明かりと道路を走る車のヘッドライの残像が残る。空は雲で隠れ気味の満月だった。満月の日くらい綺麗な丸の月でいろよ、なんて思う。 しかし、そんなことより店内を自然に振る舞いながらお冷でも飲んで、周りの人でも観察出来きたらな…それができずに必然的に外を眺めてた。 こんなボクはやっぱりどうかしているのだろうか? あっ、どうかしているからこんな人生送ってるんだった…。 しかし、遅い。遅すぎる。 ボクはもう二十分以上は外を眺めていた。どんなに遅くたって飲み物くらい五分程度で来るだろ。いつになったらドリンクバーとやらがテーブルの上に運ばれてくるのだろうか?  拭っても止まることのない冷汗をダサいハンドタオルで拭きながら、あと五分待っても来なかったら帰るか。だいたい、飲み物が飲みたくてファミレスに来たわけではない。ただ外に出ていろんな事を経験できれば満足。逆に、今頃になって持ってこられても困る。きっと「申し訳ございません、忘れてました」みたいな事を血の気の引いた顔で言われることだろう。そんなことされたら、こっちがどうしていいかわからなくなる。そんでもって、ボクはまた喋らなければならなくなる。いやだ、悪夢だ。もう喋る仕事は営業時間外だ。 ボクは最後にもう一度テーブルの上に置いたままになったメニューを見てそそくさと帰ることにした。 へー、ドリンクバーってセルフサービスなんだ…。 さすがに今更コップを取りに行き、一杯のジュースさえ飲む気にはなれず、三百五十円を払って店を出た。  ファミレスを出て夜空を眺めてみると、いつの間にか綺麗に整った満月がボクを笑っているように見えた。 ふん、笑うがいいさ、今日のボクは格段に成長したよ。そんな事を思いながら家までの道のりをゆっくりと歩いた。
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