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第19章 1月30日
それはいきなりのことだった。亜季の母親が急に林悟の職場を訪ねて来た。林悟は亜季のところに来たのかと思ったがそれはそうではなかった。それで自分と亜季の二人を誘って夕飯にでも行くつもりなのかと思ったがそれも違ったのだった。
「今日は悟さんに会いに来たの」
「僕にですか?」
「ええ、最近うちにも全然寄ってくれなくなっちゃったし」
「すみません。亜季さんと新居の準備ばっかりになってしまって」
「どう? 進んでる?」
「はい。家具の搬入はほとんど終わりました」
「そう」
林悟は亜季の母親が新居の進捗状況を聞きに来たのかと思った。でも、それも違ったようだ。新居の準備が滞りなく進んでいるという説明にはその表情を明るくすることがなかったからだ。
「実はね、悟さん」
「はい」
「話しにくいんだけど」
「どんなことですか?」
「実はこの話をなかったことにしてくれないかしら」
「この話って?」
「亜季との結婚」
「え・・・・・・」
「亜季との結婚を解消して欲しいの」
「どうしてですか?」
林悟はそこが職場のカフェだということを忘れて、つい大きな声を出してしまった。その時そこには社員がほとんどいなかったが、それでも数人が二人を好奇の目で見た。
「悟さん、あなたのお父さんなんだけど」
「僕の父の話ですか?」
林悟は自分の父がどうしたんだろうと思った。
「本当のお父さんじゃないでしょ?」
「え?」
「あなた、養子に来たんでしょ?」
林悟はその一言でずっと忘れていたことを突然思い出させられた。
「どうしてそのことをご存知なんですか?」
「うん。ちょっとね」
「でも僕が養子だということと婚約解消とがどんな関係にあるんですか?」
「あなたの本当のお父さんは誰だか知ってるの?」
亜季の母親は彼の質問には答えずに話をどんどん進めて来た。
「いいえ。でも、それがどうしたんですか? 確かに僕は今の林家には養子でもらわれましたが、それでも林家の人間として育てられ、そして僕自身林家の人間だと思っています。ですから僕の本当の父親が誰だということは全く気になどしていないんです」
「それはわかります。悟さんは立派な青年です。例えあなたの本当の父親が犯罪者だとしてもそれがためにあなたの評価が下がることはないでしょう」
「僕の本当の父親が犯罪者なのですか?」
「それは例えです」
「なんだ、びっくりした」
「あなたの父親が犯罪者だとしてもその人格があなたに遺伝するわけじゃないでしょ? 父親とあなたは全くの別人格ですし」
「はい」
「でも私がこれからお話しすることはそれよりももっと重大なのですよ」
「え」
林悟は依然変わらぬ深刻そうな美紅の表情に胸の中の不安がどんどん大きくなって来るのを感じた。
「実はね。あなたのお父さんは徹という名前なの」
「徹?」
「ええ、暮地徹」
「暮地徹?」
「そう」
「暮地というとご親戚ですか?」
「暮地徹の父親は暮地正夫です」
「それって」
「私の母の兄です」
「すると」
「つまりあなたは亜季のはとこになります」
「はとこ?」
「ええ。祖父母が兄弟姉妹同士の関係をそう呼ぶでしょう?」
「それは知ってますが、でもそれがどうして婚約解消と結びつくんですか?」
「はとこ同士の結婚は近親婚でしょ?」
「それはそうですが、法律ではより近い関係の、いとこ同士の結婚でさえ認められているじゃないですか」
「日本の法律ではそうかもしれませんが、世界では、いとこ同士は勿論のこと、より遠い関係の、はとこ同士の結婚、更にはみいとこ同士の結婚も禁じられている国があるのよ」
「そうなんですか?」
「ええ、だからここではっきりお話ししておきましょう」
林悟は今までのよくわからない話にやっと明確な答えが出るのかと思った。
「近親婚が避けられる理由の一つに重篤な遺伝病が表に出て来るということがあります。例えば血友病などがその代表的なものです」
「それは知っています」
「暮地家も同じで実は隠れた遺伝病があるのです」
「ほんとですか?」
「こんなこと冗談で言えますか!」
「あ、はい」
「ですから伯父の正夫とそして私の母も当然その遺伝子を受け継いでいるんです。その遺伝子は伯父の息子さんを通じてあなたにも伝わっています。同様にそれは母から私を通して亜季にも受け継がれているのです」
「それってどんな病気なんですか?」
「説明するまでもないでしょう」
「ですが」
「そんなことを私から話させないでくださいな」
「はい。すみません」
「ですからこの話はなかったことに」
「ですが、それって子どもが出来た場合に問題になるんですよね。でしたら子どもを作らなければ避けられることではないですか?」
「そんなこと出来るの?」
「やれというのであれば、なんとしてでも」
「でもあなた、亜季があんなに子ども好きで、そして二人の子どもをあれほど待ち望んでいるのを知っているでしょう?」
「あ・・・・・・」
「残念ながらその人でなくてはいけないという男女の結びつきは、この世にはないのですよ。そう思うのはその人を好きになったひと時だけの話です。あなた以外の人とでも亜季はきっとやっていけます。そして子どもも出来るのです。いいえ、寧ろその人こそ亜季にとって望ましい人なのです。それこそ運命の人なのかもしれない。
ですからあなたはそういう人ではなかったの。あなたはその運命の人ではなかったの。却ってあなたは亜季にとって避けなくてはならない運命の人だったのね」
林悟は返す言葉がなかった。
「それにね、今正夫伯父さんが自分の叔母を殺した疑いがもたれているのはご存知でしょ? もしあなたが正夫伯父さんの孫なら、尊属殺人犯の孫ということになるかもしれないの。さっきも言ったけど例えあなたのおじいさんが殺人犯でもそれによってあなた自身が非難されることなんて何もないのよ。
でもね、それはわかっているけど、それを世間が許すか許さないかは別問題です。世間様の冷たい視線を亜季がずっと背負って行かなくてはならないなんて、そんな可哀相なことを母親として黙って見ていられないのよ」
林悟はその時、亜季は自分の母親が今日ここに来て、自分にこういう話をしていることを知っているのかと思った。そして二人の婚約解消を承知しているのかと思った。
「亜季は自分の大伯父が親族を殺したかもしれないということだけで、とても傷ついています。それが自分の夫の祖父がしたかもしれないということになったら、とても耐え切れないと思うの。亜季はあれでとてもナイーブな子でしょ? だからあの子を本当に愛しているのなら、あの子のことを金輪際忘れて欲しいの。悟さん、お願い。辛いだろうけどどうか承知してください」
亜季母親はその場に呆然としていた林悟の手を掴んで泣きながら頭を下げると暫くして帰って行った。
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