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第15章 前年の10月25日
亜季が男の人を実家に連れて来たのは初めてのことだった。それは亜季に付き合ってる人の一人くらいいるのか彼女の両親が話していた矢先だった。母親はどんな人だろうと興味があったが、ずっと娘を可愛がっていた父親は複雑な気持ちだったようだ。
その人は亜季の会社の同僚だった。玄関に現れた彼を見て母親は格好いい青年だと思った。
「男は中身だから」
それはその彼をうちに連れて来ると亜季が言った時だった。どんな人なのかという母親の問いに娘があんまり格好いいと連呼したので父親がそんなことを言った。
「中身だっていいんだから」
それですぐに娘の反撃にあった。
彼の名前は林悟といった。スーツに身を包んだ彼は両手にお土産を持っていた。右手には彼女の父親が好きなシングルモルトのブランデーを、そして左手にはその妻が好きなカスミソウの花束を抱えていた。それで彼らは自分たち夫婦の趣味を娘にちゃんとリサーチしていたのだと思った。
「仕事は出来そうだな」
頂いたブランデーを嬉しそうに眺めながら父親が言った。母親は娘の手によって花瓶に生けられたカスミソウを見て、彼が優しい心遣いが出来る人だと思った。
それから4人はリビングの掘り炬燵を囲んで歓談した。彼は外見だけではなく、お土産同様中身もよく出来た人だった。父親とは仕事のことで話が弾んだ。母親とは趣味のことで盛り上がった。
「映画って割引の日があるでしょう?」
「レディスデーですか?」
「ええ、私が行く映画館は毎週水曜日がその日なの。それでね、その日は映画が千円になるの。だから水曜日にはよく1人で映画を観に行ってるのよ」
母親の趣味は映画鑑賞だった。しかしその夫は大勢の人と長時間一緒にいることに耐えられない人だった。それは二人がまだ付き合って間もない頃だった。一度だけ一緒に映画を観に行ったことがあった。ところが途中で夫は気持ちが悪くなったと言って退席してしまった。それ以来妻はいつも1人だった。
「私たちもたまに映画に行ってるよ」
彼が母親とばかりが話し込んでいたので、それにやきもちを焼いた娘が話に割り込んで来た。
「僕たちはレイトショーですね」
「レイトショーも割引があったわね」
「ええ」
「あ、それで時々亜季の帰宅が遅かったのね」
「あ、すみません。ご心配をお掛けしました」
娘は墓穴を掘ったという顔をした。
それから彼の両親の話になった。もし娘が彼の元に嫁いだとしたら、どんな両親と一緒に暮らすことになるのか、やはり親としては心配なことだった。
「最初は二人だけで暮らそうと思っています」
「でもいずれは親御さんと一緒に住むつもりなんでしょう?」
「一人っ子なのでそうなるかもしれませんが」
「うちも一人娘なんだけどなあ」
父親が脇から茶々を入れた。
「ご両親はどんなことをされていらっしゃるの?」
「父はリタイヤしています。それで悠々自適な生活をしています」
「それは羨ましいなあ」
父親がそう言った。
「母はずっと病弱だったのですが7年前に他界しました」
「あ、それはお父さん寂しいですね」
父親が妻の顔を見ながら慌ててそう言った。
「悟さんだって寂しいのよ」
父親に続けて娘がそう付け足した。
「それではお母様が亡くなった後はお父様とずっと二人だけだったの?」
「はい」
母親はその時の彼の顔がどうしようもなく可哀相に見えた。それでつい、これからは自分が母親代わりになりましょうねと言ってしまった。
「お母さん、何を言ってるのよ。悟さんには私がいるんですから、お母さんは必要ありません」
すると今度は母親が娘の反撃を受けてしまった。
第16章 1月25日
「こんばんは」
暮地修は再び美紅の家を訪ねた。しかしその日そこに来た用件は亜季の披露宴の手伝いの話ではなかった。それは亜季の許婚の林悟のことを聞きに来たのだった。
「あら修君、今日も亜季は遅いらしいんだけど」
「いいえ、今日は披露宴の手伝いのことじゃないんです」
「え、じゃあ何かしら?」
「悟さんのことなんです」
「悟さんのこと?」
「はい」
「何かしら」
「ちょっと込み入った話で」
「そう。じゃあ、とりあえず中へ入って」
暮地修は美紅に言われて彼がお気に入りの掘り炬燵のあるリビングに通された。
「悟さんのことって何かしら」
「はい」
すると早速美紅はそのことを彼に尋ねて来た。それで暮地修はどう切り出そうかと思い悩んだ。
「まさか別に女性がいたとか?」
なかなか話を切り出さない彼をまくし立てるように、美紅がそう言った。
「そんなんじゃないよ」
「冗談ですって」
するとそう言って美紅が笑った。暮地修は幼い頃、そうやってよく彼女にからかわれていた。
「悟さんて、ご両親はどんな人なの?」
仕方なく、暮地修は思い切って話を始めた。
「どんなって、お父さんはもうリタイヤされていて、お母さんは七年前に亡くなったそうよ」
「お父さんはなんていう人?」
「お名前は伺ってないけど」
「そうなんだ」
「名前がどうかしたの?」
「うん。ちょっとね」
「ちょっとって?」
「ちょっと気になって」
「何よ。私の方が気になっちゃうじゃない」
「うん」
「言ってみて」
「うん」
「うんじゃなくて」
「わかった。言うよ。悟さんのお父さんの名前なんだけど、徹っていうんじゃないかな?」
「徹さん?」
「うん」
「どうして?」
「なんとなく」
「なんとなくってどういうこと?」
「それはちょっと」
暮地修はどうしてもそれ以上突っ込んだ話が出来なかった。
「じゃあ徹という名前だとどうなるの?」
「どうっていうことはないんだけど、知ってる人かなって思って」
「修君が知ってる人?」
「う、うん」
「なんか歯切れが悪いわね」
結局暮地修はそれ以上種明かしが出来ないまま、その日は帰宅することになってしまった。
「変な修君」
そして最後には美紅にそんなことまで言わせてしまった。しかし暮地修が自宅に着いた時だった。彼のスマートフォンに美紅からメッセージが届いているのを見つけた。
「悟さんのお父さんは徹さんではないようです。亜季から聞きました」
それにはそう書かれてあった。
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