19人が本棚に入れています
本棚に追加
第十七章 二月一日 その一
「お母さん、悟さんが、悟さんが・・・・・・」
娘からの電話はその後それが切れてしまって、いったい何を伝えたかったのか皆目検討がつかなかった。美紅は急いで娘のスマートフォンに何度も電話をしたが、それは遂につながらなかった。深夜の電話だったのできっと何かあったのではないかと思ったのだが、美紅は娘からの連絡をただ待つことしか出来なかった。
それからどれくらい経っただろうか。家の電話が突然鳴った。真夜中の電話の音に彼女の夫も驚いて目を覚ました。美紅は娘からの電話だと思って急いでそれに出るとそれは警察からだった。
「いったい何があったのですか。娘に何かあったのですか?」
「娘さんは今こちらにいます。娘さんは大丈夫ですよ」
「娘が警察にいるんですか?」
「はい」
「いったい何があったんですか?」
「林悟さんをご存知ですか?」
「はい。娘の婚約者ですが」
「亡くなりました」
「え?」
「林さんが死んでいるところをお宅の娘さんが発見したんです」
「それってどうして?」
「娘さんが林さんのお宅に行ったようです。そうしたら林さんが死んでいたそうです。しかし娘さんは今も錯乱状態でそれ以上は聞き出せないんです」
「どちらの警察ですか?」
「代々木警察です」
「今からそちらに伺います!」
「是非お願いします」
美紅は夫に声を掛けてそれから慌てて着替えて、そしてタクシーを呼んだ。タクシーを待っている時間がとても長く感じられた。美紅がやっとの思いで警察に飛び込むと、そこには憔悴し切った娘が婦人警官に付き添われて椅子に座っていた。
「亜季!」
美紅は娘を呼んだ。しかし娘にはそれが聞こえなかったようだった。
「亜季、大丈夫?」
「あ、お母さん」
美紅は娘に近づいて行って、もう一度名前を呼んだ。すると娘は母親の姿に気がつくと椅子から立ち上がってその胸に飛び込んだ。そしてそれからしばらく泣き続けた。父親はその間中、娘の背中を優しくさすっていた。
やがて外が明るくなりだした。娘もようやく落ち着きを取り戻したようだった。それで刑事が事情聴取を再開したいと言って来た。美紅は娘のことが心配だったので、是非と言って同席させてもらうことにした。
「もう一度林さんを発見した時のことを話して頂けますか?」
「亜季、大丈夫?」
「うん。もう平気だから」
そう言ったものの美紅から見た娘はとても大丈夫とは思えなかった。しかし、自分に鞭打って刑事の質問の答えようとする姿を美紅は黙って見ているしかなかった。
「会社が終わって、それで、あのマンションに、行ったんです」
「あそこは林さんのマンションなのですね?」
「・・・・・・」
「娘と悟さんが結婚して住むことになっていたマンションなんです」
亜季は嗚咽をこらえるたびに言葉に詰まってしまったので、美紅が答えられることは代わりに答えようと思った。
「なるほど。そこへあなたは行かれた。よく行かれていたんですか?」
「はい・・・・・・」
はいと答えた後に亜季はまた言葉を詰まらせた。きっとあのマンションに二人で過ごした時間を思い出してしまったのだろう。
「毎日通っていたようです。式も近かったですし。それで会社が終わってから新居に寄って色々と準備をしていたようです」
「そうなんですね。搬入するものも色々とあったのでしょうね?」
「だと思います」
「それで今日行かれた時は何かいつもと変わったことはありませんでしたか?」
「変わったことですか?」
その質問は亜季にしか答えられないことだったので、美紅はしばらく静観していることにした。
「はい。玄関のドアがいつもは閉まっているのに開いていたとか」
「いつも開いているんです。あの時間は私が来るのをわかってましたし」
「するといつも林さんが先に来ていたんですね?」
「はい。彼の方が仕事の終わる時間が早かったので」
「会社はどちらですか?」
「二人とも六本木です」
「二人とも?」
「二人とも同じ会社なんです。課も同じです。係は違いますが」
「そうだったんですか。それで部屋に入るとそこに林さんが倒れていたんですね?」
「はい」
「争った跡とかはありましたか?」
「いいえ」
「それで驚いて警察に電話をしたんですね?」
亜季が黙って頷いた。きっとその情景を思い出して、また悲しみが込み上げて来たのだろう。
「マンションの近くで不審者とかは見掛けませんでしたか。普段は見慣れない人とすれ違ったとか?」
「いいえ、そういう人は気がつきませんでした」
「気がつかないということは、いたかもしれないということですか?」
「はい。あまり周りは気にしないので」
「最近の林さんの様子はどうでしたか?」
「様子、ですか?」
「はい。何か悩んでいたとか」
「いいえ、そういうことはありませんでした」
「あなたの気がつかないこととか、知らないこととかそういうことがあった可能性は?」
「いいえ、私たち、一切隠し事はないので」
「死因はアルカロイド系の毒を飲んだことによるようです」
「アルカロイド?」
「はい。誤飲だか、自殺だか、それはまだわかりませんが」
「自殺なんてありえません!」
すると刑事がそう言った途端、亜季が抗議するように刑事を睨んだ。
「では他殺だとしたら誰が、何故、ということになりますが」
しかしそれには亜季は答えられなかった。
「誰かに恨みを買うとかありませんか。会社でとか、普段の生活でとか」
亜季は黙ってしまった。それで美紅が代わりに答えた。
「とても良い青年でした。人様から恨みを買うなんてとっても思えません」
「すると自殺でしょうか?」
美紅はその時、亜季と刑事のやりとりを見ていて、先日林悟に会ったことをこの場で話さなくてはいけないと思っていた。それは娘にも夫にも黙っていたことだった。
「実は刑事さん、お話したいことがあるんです」
「なんでしょうか?」
美紅は心を鬼にしてその話を刑事に語った。
第十八章 二月三日
林悟のことで美紅を訪ねた後、暮地修はこのことを美紅に切り出すのは無理だと考えた。それでこの問題をいっその事、探偵に依頼できないかと思った。そしてどうにもこうにも行かなくなった挙句、遂にそのことを探偵に話してみることにした。
「じゃあ暮地さんはその林悟さんが正夫伯父さんの息子さんの息子さんじゃないかって言うんですね?」
「何の根拠もないんですが」
「しかし奇抜ですね」
「確かに徹という名前なんていくらでもいますから、奇抜だと言われても仕方がないと思います。ですが大叔母さんが殺されて、それから正夫伯父さんも亡くなって、それで亜季ちゃんの婚約者として現れた悟という青年が、あの刑事さんが言うように一連の事件に関係していると考えるのも、あながち間違いじゃないと思ったんです」
探偵は暮地修の話を黙って聞いていた。
「軽蔑されるのを覚悟で言えば、一興とでも言いますか」
「一興とはいい響きですね」
「はい。一興なんです。ですから違っても違ってたね、くらいで済まされることなんじゃないかなって」
「では、その林悟という青年の父親を調べればいいのですね?」
「はい、是非!」
「でもその亜季さんの話だと、彼の口から彼の父親の名前は徹ではないと言っていたのですよね?」
「はい。それは嘘ではないと思うんですが」
「すると考えられるのは、林さんが養子だったということですね」
「養子ですか。なるほど」
「実の父親が徹で、養父は徹じゃないということです」
「はい。わかります」
「調べてみますよ。林さんの親御さんを」
「ありがとうございます」
暮地修は最後にそう言って安心してその事務所を後にした。
しかしそれから二日後のことだった。探偵から彼のスマートフォンに電話が入った。
「暮地さん、林悟さんが亡くなったのはご存知でしたか?」
「え!」
暮地修は探偵からの電話で断崖から突き落とされたような気持ちになった。
「うそ!」
「もし林悟さんが正夫さんの孫なら、響子さんからの財産が分けられることになるのでそれで区役所で彼の戸籍を取ってみたんです。すると林悟さんは数日前に亡くなっていたんですよ」
「彼まで亡くなったなんて・・・・・・」
林悟が数日前に亡くなっていたにも関わらず、この件については美紅から暮地修に連絡が来ていなかった。
「でも美紅さんからは悟さんが亡くなったことを知らせて来ていないんです。どうしてだろう?」
「婚約者のお母さんですし、当然そのことを知ってるとは思いますが」
「ですよね。亜季ちゃんの婚約者が亡くなったことを知らないなんてあり得ないと思います」
「もしかしたらそのことであちこち飛び回っているのかもしれませんね。亜季さんに連れ添って警察に行ったりとか」
「あ、披露宴もキャンセルしないと」
「お葬式もあります」
「そうですね。じゃあ僕から美紅さん、従姉に連絡してみます」
「それがね、暮地さん」
「はい」
「万が一と思ってあの本間刑事に林悟さんのことを聞いてみたんですよ」
「何を聞かれたんですか?」
「死因です。そして事件絡みで亡くなったかどうかです。そうしたら林さんはアルカロイド系の毒を飲んで亡くなっていたんです」
「じゃあまさか彼も殺されたということですか?」
「警察はまだ自殺とも他殺とも決めかねているようです」
「でも、結婚前の幸せな時だったんですよ。自殺ということはあり得ないと思いますが」
「それが最近、彼が友達に悩みごとを相談していたらしいんですよ」
「どんな相談ですか?」
「結婚をやめようかという相談だったそうです」
「え・・・・・・」
最初のコメントを投稿しよう!