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文化祭最終日、受付のテントの中で真紘は感慨に浸っていた。時刻は午後三時、来校する者もまばらになりきっとこのまま滞りなく終わるだろう。最初は全く乗り気がしなかったが、経験をして悪くなかったとは思えた。 すぐ横のパイプ椅子には隣のクラスの実行委員の木崎悠(きざきゆう)が先ほどまで座っていた。彼も真紘と同じ男性のオメガだ。彼には想い合っているアルファがいる。その相手と約束をしているようで朝からソワソワしていた。最終日となると、やることはほとんどなく席を外していいと真紘の方から提案した。 自分もいつかアルファとそんな関係になる日がくるのだろうか。ふと千尋の顔が頭に浮かんだがそれを打ち消すように頭を振った。この前あんな話を聞いたから思い入れが強くなっているだけだろう。アルファは本来傲慢で意地汚い存在だ。でも千尋のことをそんな風に思ったことは一度もない。なぜだかはわからなかった。一緒に暮らしているし家族と同じような存在になりつつあるのだろうか。 アルファもそれに寄生するオメガも大嫌いなはずだった。でもさっきアルファの元へ駆けていく友人の笑顔を見た時、今まで何をそんなに嫌悪してきたのだろうと疑問符が浮かんでしまった。(つがい)など作らないーそう誓ってつけたチョーカーに触れると首筋から伝わる脈がやたらと速かった。 午後五時、後夜祭が始まった。 各生徒にお菓子とジュースが配られ、ステージで軽音楽部やダンス部がパフォーマンスをしている。なんてことないイベントだか薄暗いグラウンドに所々、ライトが灯っているだけで幻想的な空間に思える。オレンジ色の温かい光をぼんやり眺めていると急に眠気が襲ってきた。グラウンドの隅で大きな欠伸をしたところで長身の男が前を横切った。 「千尋!」 思わず声を掛けていた。 千尋は制服姿で肩から鞄を下げていた。 「もう帰るのか?」 「明日午後から雨だっていうから今日のうちに洗濯物夜干ししておきたいし、夕飯の準備もある」 「そっそうだよな…」 千尋を引き止める理由はない。約束をしている訳でもないし何より家事をするために帰ろうとしているのだ。仕事だからということもあるがそれは全て真紘のためだった。でも今、無性に千尋と話したかった。 「今日は有休にする!だからお前もここでお菓子でも食べろ。夕飯は適当に買って帰ればいい」 「有休ってことは今日の分も給料出る?」 「出ます!っていうか一日休んだら差し引くとかせせこましいことしないから」 全くちゃっかりしている。持っていた菓子を差し出すと千尋は真紘の横に立った。それとほぼ同時に校舎の壁面に映像が映し出された。文化祭の様子が簡単なムービーにまとめられているようだった。たかが高校の文化祭なのに壮大なBGMを使い、やたらと感動的な仕上がりになっていて涙ぐむ者もいた。真紘はもちろん泣くことはなかったが何かをやり切った達成感は悪くなかった。しかもそれは横にいる千尋がいなければ成し得なかっただろう。 「ありがとう、千尋のおかげでやり切れた。お前が家に来てくれてなかったらきっと途中でまた倒れてた」 自然と感謝の言葉が口から出ていた。 「別に俺は何もしてない。真紘が頑張っただけ」 千尋は相変わらずの無表情で言うと鞄から何か紙のようなを物を取り出した。見ると真紘が制作した文化祭のパンフレットだ。 「すごくわかりやすい。保健室の場所とか具合が悪くなっときの連絡先とか細かく載ってる。これならオメガの人もきっと安心して来れる」 「あっ…うん。ありがとう」 文化祭など興味がないと思っていた千尋がパンフレットをきちんと読んでいていたことにまず驚いた。 「家に持ち帰って何度も修正してた。真紘は頑張っているところを頑張って隠しているのを頑張ってる」 「ん?今、何回頑張ってるって言った?」 「さあ?」 突然、千尋の手が伸びてきて頭を撫でられる。予想もしなかった行為で一瞬体がびくりと震えた。ぶっきらぼうな千尋からは想像できないほど慈しむような手の動きだった。 数秒間、頭の上を優しく往復すると真紘より一回り大きな手がゆっくり遠ざかっていく。 指の間から見えた千尋は微笑んでいた。 その笑顔を見てなぜだか泣きそうになる。 こんな風に誰かに褒められたのはいつぶりだろう? 体が中心から温かくなっていく。そして頑張っているのはお前だって同じだろう?そう言おうとして紡ぐ言葉を変えた。 「千尋、お前は間違いなく母親に愛されてたよ」 愛されて育ってこなければ人の優しさには気づけない。真紘が作ったパンフレットはほとんど前年のものを踏襲していて内容は特に変わり映えしていない。けれど、オメガへの配慮が足りないと感じて各フロアにある避難場所をより分かりやすく表示するよう変更した。 真紘がさりげなく散りばめた優しさに気づいたのは千尋だけだった。 「母さんが見たら喜んだと思う。もし会えたらこのパンフレットを作ったのは俺の…俺の……真紘って…俺の何?」 「は?」 「…友達じゃない、気がする…もっと近いような。あっ…知り合い?」 「いや、遠くなってるから」 「とにかく俺の大切な人が作ったって言いたい」 完全に不意打ちだった。 しゃべればいつも変なことばかり言うくせに急に何なんだ。調子が狂う。顔が熱くなる。 どう返したらいいかわからない。 「やっぱり帰ったらお前の味噌汁だけ飲みたい」 頬が赤いのを隠したくて思わず出たのはそんな言葉だった。 「わかった。帰ったら作る」 今日は有休だと言ったばかりなのに千尋は文句を言わなかった。 目の前に映し出された映像をじっと見つめている。夜のライトに照らされて千尋の顔が薄いオレンジ色に染まっていた。
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