1

1/1
前へ
/15ページ
次へ

1

「ただいま」 言ってから誰もいないのだったと我に返る。 廊下の電気をつけ重い鞄を床に下ろした。 「疲れた…」 真紘は後学のため生徒会にも所属している。 今日は試験期間中に出来なかった仕事が溜まりに溜まっていた。それを片付けてから予備校に行き、閉校するまで自習室で勉強していたため帰りが大分遅くなってしまった。 誰かに仕事を振ることも出来たがしたくなかった。先日鈴原に言われた言葉が行動の原動力となっていた。オメガだから出来ないなんて絶対に思われたくなかった。 長年暮らしていた実家には誰もいないということがまずなかった。家族がいない時でもお手伝いの女性が常駐していた。真紘は高校を入学と同時に一人暮らしをしている。オメガ性がわかってからの家での居心地の悪さと早く一人立ちしたい強い思いがあったからだ。 家族には当初反対されたが、学校の近くに篠原が所有しているマンションがあり実家からもさほど遠くないということで許可が下りた。 成績の水準を落とさずに一人で生活出来るとわかれば家族も安心するのではないかと思った。 「はぁ…」 しかし現実はそう甘くなかった。 廊下に散乱した服を見て真紘はため息をついた。前者については順調だ。しかし後者については、ご覧の有様だ。虚な目で廊下に散らばった服を数えながら、そろそろさすがに洗濯しなくてはまずいと思った。 家事くらいなんてことはないと思っていた。 しかし今ではこの世の中こんなに難しいものは他にないと思っている。一人暮らしを始めた頃は張り切って自炊もしてみたが話にならなかった。 手を洗ってからよろよろとリビングに向かい冷蔵庫を開けて更に絶望した。見事に何もない。心底面倒だが腹は減っている。このままではたぶん空腹で寝られない。ソファに置いてあったスウェットに着替えると欠伸をしながら部屋を出た。 自動ドアが開いてコンビニ特有の入店音が鳴った。今日ほどマンションの一階にコンビニが併設されていたことを感謝したことはない。適当に手早く満腹感を得られそうな弁当を手に取りレジに持って行った。しかし台の上に置いても店員が動く気配がない。怪訝に思い顔を上げると聞き覚えのある声が降ってきた。 「篠原くん…」 「えっ…あっ」 そこにはコンビニの制服を着た鈴原がいた。 この前の一件以来鈴原と顔を合わせるのは初めてだった。真紘が嫌悪していることはさすがに伝わっているだろう。気まずい…何を話せばいいんだと思うと同時に次々と疑問が浮かんできた。 なんでアルファのお坊ちゃまがこんなところにいるんだ?規則でアルバイトが禁止されているわけではないがアルファ特進クラスの奴がバイトしてるなんてまず聞いたことがない。というかいつからここでバイトしてるんだコイツは。今まで何回か利用したことはあるが一度も見かけたことはない気がするのだが… 「あのこの前はごめん」 言いあぐねていると鈴原の方から切り出した。 「何に篠原くんが怒ってるかはわからなかったんだけど、でもとにかく俺に怒ってることだけはわかったから。足も痛かったし」 謝罪されているのか責められているのかよくわからなくなってきた。しかも、何に怒っているかわからないってあれは嫌味で言ったんじゃないのか?コイツ本当は馬鹿なのか?いや馬鹿なはずはない。自分よりずっと成績が良かった男なのだ。じゃあいわゆる天然という部類の人間なのだろうか。 とにかく鈴原の言葉から嘘の匂いはしない。 これだけは確かに言えることだった。 「こっちこそ、ごめん」 腑に落ちない点はあるがこちらも素直に謝った。すると先ほどまで無表情だった鈴原の顔が ほんの少しだけ明るくなった気がした。 「じゃあ、もう怒ってない?」 こちらを探るように鈴原が聞いてくる。 怒っていないというか、怒る気力が失せたというほうが正しい。黙って頷くと、忘れていた疲労と空腹感が襲ってきた。とりあえずこちらからも謝ってスッキリしたし、もともとアルファと慣れ合う気はさらさらない。早く帰って寝たい。しかし次の鈴原の発言に眠気は一気に吹き飛んだ。 「俺、ずっとオメガになりたくて。だから篠原くんからいろいろ学ばせてもらっていいかな?」 馬鹿と天才は紙一重だとよく言う。 これは完全に天才が一周回ってイカれたタイプだ。第二の性を変えることなど出来ない。ましてやオメガになりたいなど、そんな人間聞いたことがない。しかも世の中の大多数が喉から手が出るほど欲しいアルファの性を有しているものが言う台詞ではない。 「篠原くんが俺の理想のオメガなんだ」 ヤバい。ヤバいヤバいヤバい。 なぜそこでうっすらと頬が赤くなる? コイツは危険だ。頭がおかしい。 人としての本能が全力で関わるなと警告を鳴らしている。 「か…会計」 「あっごめん。温める?」 「結構です」 もう混乱して敬語になってしまった。 鈴原が弁当のバーコードをスキャンし袋に詰めるまでとにかく目を合わせないようにした。 素早く電子決済をしてレシートを受け取ると逃げるようにして立ち去る。 「じゃあ明日からよろしくお願いします」 振り返ると丁寧に鈴原が頭を下げていた。 何をどうよろしくされるんだ…? その日、真紘は本当にヤバい奴を目の前にすると声すらも発せなくなるのだと学んだ。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

188人が本棚に入れています
本棚に追加