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頭の中の揺れが治らず鍵も上手く開けられそうになかったので玄関前で千尋に手渡した。 千尋は肩腕で真紘のことをしっかりと抱えながら、もう片方の手でいとも簡単に鍵を開けた。 中に入り廊下の電気をつけた。だが千尋は一向に靴を脱ごうとしない。 「真紘、大変だ」 「何が?」 大変なのはこっちだ。動いたからか本当に今にも吐きそうだった。頼むからここまで運んできたのだから責任を持ってベッドまで運んでくれと心底願う。 「警察を呼ぼう」 「はぁ?」 何言ってんだ。今呼ぶとしたらそれは医者しかないだろう。 「空き巣に入られたみたいだ」 千尋の言葉に絶句した。 そういえば部屋が惨状と化していたことを忘れていた。廊下にはタオルや脱ぎ散らかした服が散らばっている。視線の先に見えるリビングも荒れ果てているのがここからでもわかる。 「入られてないから!ここ数日ちょっと片付けが出来なかっただけで…うっ…」 思い切り息を吸い込んでから声を出したからか、とうとう耐えきれず戻してしまった。でも幸か不幸かちょうど床に落ちていたタオルに汚れがかかっただけで済んだ。しかしこんなところを見られるなんて恥ずかしすぎる。もう羞恥心で死にそうだ。 しかし千尋は特に焦る様子もなく横に落ちていた折込チラシを汚れたタオルの上に乗せて蓋をした。そしてそのままごく自然な流れで真紘の膝裏に手を回すと軽々と横抱きにした。いわゆるそれはお姫様抱っこだった。 「ちょっと!自分で歩けるから」 「いや、足の踏み場がないから」 吐いたからか体が少し楽になり話せる元気が戻りつつあったが、そう言われて真紘は再び口をつぐんだ。 今思いつくこの世の全ての醜態を晒してしまった気がして、もうそれからは無抵抗だった。 ベッドに寝かされてから千尋にいくつか物の場所を聞かれて答えた。台所用のハイターなんて何に使うんだ?と思ったがそれを問う気力すらも残っていなかった。後はもうひたすら布団の中に潜っていた。恥ずかしさと申し訳なさと情けなさでどんな顔をすればいいのかわからなかった。 でも見えなくとも絶えず千尋が動き回っていることはわかった。洗濯機が動いている音に混じって蛇口から水の出ている音が妙に心地よかった。食料などほぼ皆無なはずなのに今度はガスコンロを捻る音がする。気をつかわれているのか、全く気をつかわれていないのか分からないが千尋はベッドに真紘を運んでから何も話しかけてはこない。ただ家事の音だけが響いていて、それは眠りを誘う心地よい子守唄のようだった。 どれくらい眠っていたのだろう。うっすらと目を開けるとベッドの横に座り千尋は参考書を読んでいた。頭はまだ重いが先ほどとは違いかなりスッキリしている。眩暈と頭痛は治ったようだ。ゆっくりと体を起こすと千尋と目が合った。 「具合はどう?」 千尋は相変わらずの無表情だ。とにかく家まで連れ帰り起きるまで待っていてくれたのだ。数々の醜態が蘇るがここは人としてまず礼を言わねばならない。 「おかげさまで。その、ありがとう」 「お粥作ったけど食べる?」 「うん」 千尋が立ち上がりキッチンへと向かうとリビングの全貌が見渡せた。見違えるほど綺麗になっている。随所に点在していたゴミはなくなり、散乱していた数々の資料は種類ごとに分類され机の上に整理されていた。廊下に目をやると真紘が汚したタオルも片付けられ綺麗に掃除されている。カーテンの隙間からベランダの様子が見える。洗濯物が干されているのがわかった。 「これ…お前がやったのか?」 アルファのお坊ちゃまであろう千尋に家事なんてできるわけがないと思っていたから驚きだった。 「あそこまで汚いとさすがに」 粥の入った茶碗を差し出されながら案の定毒を吐かれた。でも文句は言えない。悔しいが汚かったのは事実だし身内でも嫌がるようなことを千尋はやってくれたのだ。しかも口に入れた粥も美味い。ただの卵粥に見えるが、だしと少し味噌の味がする。味噌汁とはまた違う、じんわりと体に染みる味だった。 「千尋は勉強も料理も出来るなんてすごいな」 素直においしいと言えばいいのに、これが真紘の今できる精一杯の感謝の言葉だった。やはり千尋はアルファだから何でもそつなくこなせるのだろうか。上手くこなせない自分が情けなく悔しくて、最も自分が嫌悪している思考まで顔を出す始末だった。 「家事は他にやる人がいないから自然と出来るようになっただけ。何もすごくない」 「やる人がいないってお前も一人暮らしなのか?」 「いや、母さんと二人で暮らしている…と思う」 「思うって何だ?」 ほんの一瞬千尋は目を伏せた。 「もう半年以上家に帰って来ない」 何か自分はとんでもなく恥ずかしい思い込みをしていたようだ。アルファだからきっと恵まれた家庭で何不自由なく育ってきたものとばかり思っていた。性別で判断されることを最も嫌っているくせに自分は千尋のことを第二次性で判断していたのだ。 「だから、その…バイトしてるのか?」 片親でその親は家に帰ってこない。千尋はほとんど毎日のようにアルバイトをしている。生活が困窮していることは容易に想像出来た。 「そう」 千尋は真紘と同じ特待生だろう。だから学費はほとんど免除されているはずだ。でも当たり前だがいくら特待生でも生活費までは面倒みてくれない。 衝撃だった。今まで金の心配などしたことがなかった。この国でも貧富の差は激しいとニュースでもよく言っているけれど、どこか他人事のようにいつも聞いていた。みな当たり前に親がいてあたたかい家があって不自由なく学校へ通っているものだと思っていた。 千尋も例外ではなくアルファのお坊ちゃまが小遣い稼ぎのため社会見学も兼ねてバイトしているものだと思っていた。でも実際は違ったのだ。千尋は日々の生活のために労働していた。その貴重な時間を自分が奪ったのだ。 「僕に何か出来ることってない?」 衝撃が衝動となって口から出た。 いてもたってもいられなかった。 かわいそうとか同情みたいな感情ではない。 でも何か言わずにはいられなかった。 「俺は真紘のことがもっと知りたい。だから忙しいとは思うけど少しでもいいから会いたい」 「だったら…」 次に続く言葉は本当に突拍子もないことはわかっている。でもこれ以上お互いにメリットになる方法は見つからない。これが最善策だ。 「ハウスキーパーとしてここに一緒に住まないか?」 ちょうど空き部屋が一つある。 それに加えて篠原の家から毎月、生活費と称して相当な額の資金が真紘の口座に振り込まれてくる。こんなに要らないと言ったが振込金額は変わることはなかった。友人がいないわけではないが、とにかく今は勉強に時間を充てているので、ほとんど使うことはなくただ残高だけが増えていく。 「給料としてお金はもちろん払う。一緒に暮らせば千尋は僕と会えるし、僕は今忙しくて家事をするのが難しい。だから千尋が家のことをしてくれたらすごく助かる。部屋もちょうど一部屋余ってるし、細かいことは後で決めるとして…どう?千尋にとっても悪い話ではないと思うんだけど」 「それって…」 とんでもない提案をしたにも関わらず千尋の顔はほとんど変化がなく、その表情から感情を読み解くことは出来なかった。 「真紘は俺を必要としてるってこと?」 「え…?まあうん、そうだな。今の僕には千尋が必要だ」 千尋が何を意図しているかはわからなかったが家事をしてくれる人を欲していることは事実だ。そう答えて嘘はないだろう。 「わかった。それなら、そうする」 千尋の頬がみるみる色づいていく。 これは千尋が興奮して感極まっている証拠だ。 「じゃあ今すぐ荷物とってくる」 「え?いや、今日はもう遅いし明日にすればいいんじゃないか?」 「すぐ隣だから」 「は?」 「家。このマンションの裏手のアパート」 「はぁ!?」 真紘はベッドから這い出るとベランダの窓を開けた。そういえば入居した時、壁中蔦で埋もれたアパートが隣接していて気味が悪いと思っていたことを思い出した。 「普通、隣に住んでたら言わないか?」 「聞かれなかったら」 そうだ、千尋は普通ではなかったのだ。自分で言い出したものの、家族以外の他人と暮らしたことなどもちろんない。しかも相手は普通が通用しない相手だ。上手くやっていけるだろうか。早まったのではないか。今になっていろいろな感情が渦巻いてくる。 でも時すでに遅く千尋は荷物を取りにマンションを後にしていた。 突然の同居生活はこうして始まった。
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