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鍵穴に鍵を差し込もうとしたところで千尋との約束を思い出した。鍵を鞄にしまい、インターフォンを押す。 「ただいま」 同居生活が決まってから二人でいろいろとルールを決めた。と言っても千尋は真紘の言うことにうんうんと頷くばかりで話し合いになっていたのかは甚だ疑問である。自分の意見を何一つ言わなかった千尋が唯一出した条件が家に帰ってくるときは鍵で入るのではなくインターフォンを鳴らすことだった。鍵を持っているのに、なぜわさわざそんなことをしなければならないのか真紘にはわからなかったが、千尋は譲らなかった。 「おかえり」 玄関の扉が開いて長身の男が顔を出す。相変わらずの無表情だが少しばかり嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。千尋はもう部屋着に着替えていてその上には紺色のエプロンをつけている。アルバイトを辞めてから千尋は真っ直ぐ帰宅しているようで真紘より先に家にいることがほとんどだった。 「ご飯にする?お風呂にする?」 いやいや新婚か。と思わず心の中でツッコミを入れた。自分は芸人の才能もあるかもしれない。きっとこの台詞も可愛らしい女子が上目遣いで言ったなら新婚ホヤホヤのそれなのだろう。でも自分より十センチ以上背の高い男から無表情で見下されながら聞かれると、それはただの尋問だった。 「お腹が空いているので、ご飯にします」 「わかった」 雇い主はこちらのはずなのにまたもや敬語になってしまった。要件を聞いた千尋はそそくさとキッチンへと消えていく。 洗面所で手を洗いながら鏡に映った自分を見た。肌の調子がいい気がする。規則正しい食生活を送っているからだろう。当初危惧していた千尋との共同生活は蓋を開ければ実に快適だった。 帰宅すると食事と風呂の準備が出来ている、こんな幸せなことはない。食事はメインのおかずと副菜、汁物が必ず用意されている。バランスもとれているし、食費は真紘が持つと言ったからか食材を上手くやりくりしているのがわかった。千尋の家事の技術は付け焼き刃ではなかった。長年やってこないとこうは出来ない。きっと真紘が実家で甘えまくっていた頃から千尋は台所に立ち洗濯物をたたんでいたのだろう。 リビングに入ると夕食が準備されていた。 今日は生姜焼きだ。ふわふわのキャベツの千切りの上に少し重なるようにして、きつね色の玉ねぎと豚肉が盛り付けられている。副菜は蓮根のきんぴら、豆腐とわかめの味噌汁、最後にふっくら炊き立てのご飯を千尋が運んでくる。 「いただきます」 テーブルに向かい合って座り手を合わせた。味噌汁を一口含んでから生姜焼きを食べる。今日の夕飯も文句なく美味い。実家の母が作る味付けとは違うが千尋が作る料理は体の内側からあたたまる。 「うま…」 そう言いながらかき込むと千尋も満足そうだった。同居生活を始めて数週間、驚くほどに不満はない。むしろ生活の質がかなり向上して千尋に感謝している。 千尋はもう真紘を質問攻めにすることはなくなり、ただ同じ空間にいることが多くなっていた。真紘がリビングにいれば近くで洗い物をしたり洗濯物をたたんだりする。家事が終わると少し離れた場所で本や参考書を読んでいることが多い。何時間もお互い何も話さないこともあるが不思議と少しも気まずくなかった。 千尋がそばにいる生活ははっきり言って心地がよかった。それはもう認めざるを得ない。 だからこそ聞かねばならない。こういうことは始めが肝心だ。後になればなるほど聞きにくくなる。一緒にいて心地いいからこそ、ふとした瞬間にそこばかり気になって仕方ない。 鈴原千尋という男がどんな人生を送ってきたのかを。雇用主なのだから従業員の履歴書には目を通す必要がある、そう半ば強引に結論づけた。 「千尋、あのさ…」 「おかわり?」 「違う!いやそれもあるけど、お味噌汁だけもう一杯ください…じゃなくて、もうこの際だからはっきり聞く」 「なに?」 「千尋がオメガになりたい理由って家庭のことが関係してる?」 「……」 「僕は千尋のこと、ちゃんと知りたい。だから聞いてる」 千尋の目を真っ直ぐ見て言った。 千尋の表情は相変わらず変わらない。 でも何か伝わることがあったのだろうか。 そっと箸を置くとぽつりぽつりと話し出した。
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