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アパートの玄関には昔ながらのインターフォンがあった。淡いクリーム色の土台にコーヒー牛乳みたいな色の茶色いボタン、その上に音符のマークがついていた。それを押すことが小さい頃の千尋のささやかな夢だった。家のインターフォンは中に誰かがいるとわかっているから押すものであって、誰もいないとわかっているなら押す必要はない。
ーガチャ
今日も自分で鍵を開けて中に入った。
自分の帰りを待ってくれている人は今日もいない。手を洗ってから部屋の一角に設けられた小さな棚の上にランドセルを置いた。
ミニテーブルの上で簡単に宿題を済ませると外に干してあった洗濯物を取り込んだ。パジャマと下着は風呂上がりにまた着るので脱衣所に持っていく。残りはたたんで自分と母の共用のタンスにしまった。
冷蔵庫から玉ねぎを取り出し皮を剥き薄切りにする。途中で米を研ぎ忘れていたことに気づき、ぴったり一合研ぐと炊飯器のスイッチを入れた。小学生なので一人の時に火を使うことはまだ許されていない。夕飯の下ごしらえを整え、風呂も沸かしてしまおうと思いたったところで母が帰って来た。
「おかえりなさい」
「ごめんね、千尋」
出迎えると母はいつも「ただいま」とは言わずまず謝罪する。小さい子供を一人にさせている罪悪感からだろうか。母は何も悪いことなどしていない。遅くまで働いてくれているのは生活のためだとわかっている。
「玉ねぎ切っておいた」
「え…?ありがとう。怪我とかしてない?教えてもいないのによく出来たね」
「母さんがやってたの見てたから」
「そう…千尋はすごいね」
ほんの一瞬、母の顔がかげった。
でもすぐにいつもの笑顔に戻り、頭を撫でて褒めてくれたので特に気にも留めなかった。
母の役に立てることが千尋の何よりの喜びだった。
たぶんあれは最後に母と一緒に風呂に入った時だと思う。小さな浴槽に肩を寄せ合いながら浸かっていると独り言のように母が呟いた。
「千尋はせっかくアルファに産まれたのにこんな貧乏な家でごめんね」
「俺、早く働いてお金稼ぐから」
父親はアルファだということは知っていた。でもそれ以外は名前も今どこにいるのかも知らなかった。知りたいとも思わなかった。最初からいなかったので恨んだこともない。確かに暮らしは貧しかったけど母は大切に自分を育ててくれている。痩せ我慢などではなく母のために早く働いて楽にさせてあげたいというのは心からの千尋の願いだった。
「千尋も母さんと同じオメガだったら、いろいろアドバイスもしてあげられたのにね。母さんはアルファのことはよくわからないから千尋に何もしてあげられないね」
「そんなことないよ」
それだけ言うのが精一杯でお湯の中にブクブクと顔を沈めた。母さんがそばにいてくれるだけでいいとか、もっと気の利いた言葉をかけてやれば良かったのに、ちょうど思春期に差し掛かろうとしていて気恥ずかしい気持ちの方が勝ってしまった。
それから小学校を卒業し中学に入ると千尋は料理も一通り出来るようになり、毎日の夕飯は母に命じられた訳でもなく千尋が担当した。
母は「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返しながら「おいしい」と言って千尋の作った料理を食べてくれた。もう、その頃には思春期真っ只中で「別に」という素っ気ない返事しか返さなくなっていた。
中学を出たら働くつもりだった。でも母が大学までは何としても進んで欲しいと言ったので特待生枠で入れる今の高校を選んだ。授業料が免除になって母の負担にならないならいいと思った。
アルバイトも反対されたがそこだけは譲らなかった。初めてもらった給料でカーネーションを買った。母の日には間に合わなかったけれど自分で稼いだ現金をまず母のために使いたかった。
でもその日、アルバイトを終えて急いで家に帰ると仕事が休みのはずの母がいなかった。
代わりにテーブルの上に数冊の通帳と印鑑、その隣には一枚の便箋が置かれていた。
千尋、あなたは立派に成長してくれました。
私がいなくても、あなたならきっとやってい
けます。
あなた名義の口座の通帳と印鑑です。
自由に使ってください。
こんなオメガの母と今まで一緒にいてくれて
本当にありがとう。
ごめんね。
手紙に目を通すと通帳を手に取った。
無意識のうちに手が震えていて上手くめくれなかった。千尋が産まれてすぐに作ったであろう口座には毎月決まった人物から相当な額の金額が振り込まれていた。そこに記された名義を見て初めて父親の名を知った。意外と若々しい名前だな、なんてどうでもいいことを考えていた。
その日の夜も、次の日も、その次の日も母は帰って来なかった。携帯も連絡が取れなくなっていた。
一週間程経ったころ、ようやく捨てられたのだと理解した。
でも千尋には分からなかった。
小さい頃から喧嘩や言い争いなど母としたことがない。成績も常にトップで家事も率先してやって来た。母のためを思って出来ることは全てやってきた。何がいけなかったのか。中学のころ、素っ気ない態度をしたこと?反対されたのにアルバイトを始めたこと?
違うと思った。
何が母をそうさせたのか、いくら優秀なアルファの頭で考えても分からなかった。勉強が出来ても家事や掃除が出来ても意味がないと思った。人の心の機微がわからないアルファに価値などあるのだろうか。
何日経っても何ヶ月経っても母の行動の理解が出来ず、いつも悶々としたまま試験を受けていた。そんなだからかある時、英語の試験でいくつか、スペルを間違えた。試験の結果を先に見てきたクラスメイトがちらちらと千尋を見ては目が合うと気まずそうに逸らしていく。そこでもうずっとキープしてきた一位の座から陥落したのだと分かった。英語以外の教科でミスをした記憶はなく特待生枠から外れる心配は、ほとんどしていなかったが何となく誰が一位だったのか気になった。
「篠すげーじゃん!」
人だかりの真ん中で篠と呼ばれたその人物が一位を勝ち取ったのだとすぐにわかった。その首にはチョーカーがついていた。体が震えた。そしてほぼ同時に母が言っていた言葉がフラッシュバックされた。
ー千尋も母さんと同じオメガだったら…ー
真っ暗な暗闇の中、ようやく一筋の光が見えた気がした。第二の性を変えることなど出来ないことなどわかってる。でももうこれに縋るしかないと思った。
千尋の話を聞き終わって思ったのは違和感だった。悲しいとか辛いとか寂しいとかそう言った感情的な言葉が何一つ並べられていなかったからだ。
自分が千尋に話をさせたのだから、受け止める必要がある。でも真紘はどんな言葉をかけてやればいいのか分からなかった。
千尋の生活環境から大方の予想はしていた。
虐待やネグレクトを受けていたのではないか、そんな親なら見捨ててしまえ、そう淀みなく言い切るつもりだった。でもそうではなかった。
なぜ千尋の母が出て行ってしまったのか真紘にもわからない。でも千尋は愛されて大切に育てられてきた。
不可能なことだと意味のないことだと分かっていながら千尋は真紘になりたいと言っている。ちゃんと分かったうえでそう言っている。
オメガの真似事をしたからといって千尋の母親は戻ってこないだろう。でも、もしかしたら?という1%以下の可能性に千尋は縋りたいのだ。その最後の一縷の望みが絶たれたとき千尋はようやく泣けるのだろか。
だったら自分が千尋にしてやれることはその不可能な望みにとことん付き合ってやることなんじゃないだろうか。そしてようやく千尋が泣くことが出来た時、そばにいてやることなんじゃないだろうか。
考えているうちに視界が滲んできた。千尋が泣くことが出来ていないのに自分が泣くのはおかしい。千尋に気づかれないよう冷え切った味噌汁を一気に飲み干した。
「千尋、今日は僕が洗い物するからいいよ」
「いい。真紘がやると洗い残しがあって結局二度手間になる」
「おい!人がせっかく…」
そこまで言って笑いが堪えきれなくて吹き出した。千尋もそれを見てほんの少し笑った。
良かった。いつもの千尋だ。
話をしただけでも誰かに聞いてもらっただけでも気持ちが少しは楽になったのだろうか。
千尋との関係は何なのだろう。
友人?ただの同居人?従業員と雇用主?
今の二人を表す的確な関係性はない気がした。でも真紘のなかの着実に大きな部分を千尋が占領しつつあった。
もう放って置けない。これも何かの縁だ。
最後までとことん付き合ってやる。
千尋が望むなら面倒でも帰ってくる時、インターフォンを押してやろう。
文化祭が一週間後に迫っていた。
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