0人が本棚に入れています
本棚に追加
しかし、期待を膨らませる私の想いとは裏腹に、むっちゃんから出版記念パーティについてのメールは来なかった。正直、日当はいくらなのか、拘束時間はどれほどなのか、情報が無いのは困った。
むっちゃんから詳しい連絡は来なかったが、一時間前に会場に行けば良いことは、先の電話で確認済みだ。また、以前派遣で行ったことがある大規模イベントの会場整備の仕事では、スーツを着用したことを思い出した。
おそらく出版記念パーティでも自分以外にもスタッフがたくさん雇われており、自分もその中の一人になるのだろうと、私は勝手に結論づけた。
自分の判断でスーツを着用し、出版記念パーティの手伝いに臨んだ。
会場は、有名出版社ビルの最上階のイベントホールだった。
【斉藤睦美 デビュー作 出版記念パーティ】と簡単な立て看板が立っている。余白には、ウサギのイラストが油性ペンで簡単に描かれている。あのウサギは、むっちゃんが美術部でよく描いていたものだ。小さすぎる目と長く垂れたヒゲのアンバランスさが、独特なかわいさを生み出している。
エレベーターで最上階のボタンを押し、緊張しながら降りると、会場前のエントランスに複数の大人と、衣装に身を包んだむっちゃんがいた。
私が芸能活動をするむっちゃんを見るのは、このときが初めてだった。
透き通るような白い肌、大きな瞳、きれいにそろえられた前髪、、肌触りが良さそうな上品なブラウスに、折り目正しくひだを打つプリーツスカート。
むっちゃんのあまりのかわいさに、私の心はざわついた。
あいさつをしようと、むっちゃんをとりまく大人の輪にに近づいていく。
「こんにちは、本日手伝いで来ました。よろしくおねがいします」
私が礼儀正しく会釈をすると、大人たちは気持ちの良い爽やかな挨拶を返してくれる。
「むっちゃん、久しぶり」
私は少々緊張しながら、今日の主役に声をかける。
「斉藤さん、この子は?」
輪の中にいる大柄な男性が、顔面に笑顔を貼り付けて大柄な体を前に出し、むっちゃんの姿を隠す。まるで、私がむっちゃんに直接話しかけるのを妨害するかのような、無神経な間の取り方だ。
「私の高校時代の友人です、今日は手伝いできてくれました」
男の背後で応えるむっちゃんの目が宙を泳いでいるのを、私は見逃さなかった。
むっちゃんを取り囲む大人たちは、おそらく出版記念パーティの企画運営者たちだろう。みな揃いのオリジナル販売促進Tシャツをラフに着こなしている。
それに比べて、堅苦しいスーツで登場してしまった私の、なんと場違いなことか。
「これ、誰かに話通してる? 部外者はまだ入場をご遠慮いただきたいのだけど」
不信感を露わにする男性に対して、むっちゃんが目配せをすると、彼はそれきり黙り込んだ。そろいのTシャツの大人たちが、明らかに困惑し始めている。
私は後悔をし始めていた。そもそも、むっちゃんから詳細のメールが来なかったことを、ちゃんと言及するべきだったのだ。
「久しぶり、元気にしてた?今日はわざわざありがとうね」
大人たちの輪から抜け出てきたむっちゃんが、明るく私に声をかけてくれる。
「むっちゃんこそ、見違えるほどかわいいよ。本の出版おめでとう」
私も緊張を押し殺しながら、とにかく祝いの言葉だけ手短に述べ、場を取り繕うために頭をフル回転させる。
「ちゃんと確認せずに勝手に来てごめんなさい。あの、私、お邪魔なら、今日は帰るよ」
私の自信なさげな発言を、むっちゃんは「そんなことないよ! 」と大きな声で否定し、話し続けた。
「会場整備でも、猫の手はいくらでも借りたい所よ。もし仕事が無ければ、イベント参加者として楽しんでいって。ちょっとマネージャーさんに話つけてくる」
むっちゃんは調子よく言うと、先ほどの大柄の男性を引き連れてイベント会場に姿を消した。
おそらくむっちゃんは、私が手伝いに来ることを企画運営の偉い人に伝え忘れたのであろう。私がTシャツスタッフたちから距離を取り、居心地悪くエントランスでひとり待っていると、しばらくしてむっちゃんと大柄の男性が戻ってきた。
「こちらの手違いで把握できておらず、すみませんでした。早速ですが、スタッフ控え室にご案内しますね」
そう言う大柄な男性は、先ほどの怪訝な眼差しから打って変わって、人の良さそうな笑顔になっている。
「私も、詳細メールを送り忘れてて、ごめんね。連絡くれればよかったのに」
むっちゃんは高校時代から変わらない鈴の鳴るような高い声で私に弁明をしたが、よそ行きのような、他人行儀さがにじみ出ていた。
「忙しいと思って、遠慮しちゃった。集合時間と場所は分かってたから、まぁいいかなって・・・」
「次はちゃんと連絡ちょうだいよね」
私は気まずさを抱えているが、むっちゃんは全く気にしていないようであった。
そのあと、むっちゃんは会場で打ち合わせとなり、男性スタッフが控え室に案内してくれた。
男性は肩を丸めて、こちらの顔色を伺いながら、おずおずとした様子で、こちらの顔色を伺いながら口を開いた。
「すみません、あの。今日のイベントスタッフはみな、ボランティアみたいな感じなんです。日当は出なくて、報酬の代わりに、Tシャツとお茶が配布されるぐらいなんですけど・・・」
私はため息を飲み込み、当てが外れた残念な気持ちを押し殺した。賃金が出ないであろうトラブルは、エントランスの空気の悪さを見た時点で予想ができていた。
「はい、私は斉藤睦美さんの出版をお祝いができれば十分です」
そう言うと、男性はあからさまにホッとした様子であった。よく見れば肌質が若く、顔には張りがある。体が大きい彼は、現場を回す下っ端の役割なのだろう。おそらく、むっちゃんと私のせいで段取りが狂い、一番迷惑を被ったに違いない。
その後、大柄な男性スタッフのと簡単な打ち合わせをし、私にも販促用のオリジナルTシャツが配布された。黄色の布地に書籍表紙のポップなイラストが印刷されており、著者のポップで明るい印象を引き立たせるデザインになっている。私がスーツのジャケットを脱いで着用すると、ビジネスライクな印象のワイシャツとポップでキュートなTシャツがけんかをして、アンバランスな姿になった。
また、男性スタッフの話によると、出版記念パーティとは名ばかりで、実質は即売会兼握手会であることが分かった。私の役割は、売れた書籍の金銭授受である。むっちゃんの隣の席、彼女と最も近い位置でできる仕事であり、これは男性スタッフなりの気遣いかもしれないと、その時の私は思った。
しかし、イベントが始まってみると、想像以上に大変な仕事を押しつけられていたたことが分かった。来場者は三冊以上の購入で、むっちゃんとツーショットで写真が撮れるため、ほとんどの来場者は三の倍数で書籍を購入していった。冊数を聞き、売り上げ数を手元のメモ帳に記入し、頭の中で本の合計金額を計算し、透明なタッパに入った小銭からおつりを渡す。今更不服申し立てはできない。当然、ファンと交流するむっちゃんのがんばりを見る余裕は無かった。
最後のファンをさばききったころ、フラッシュ暗算のような激務を乗り越えた私は、かなり疲弊していた。大柄な男性スタッフがむっちゃんと私のそばに来て、何かねぎらいの言葉をかけた。言うつもりが無かった苦言が、私の口から漏れる。
「電卓ぐらい用意してくれれば良いのに・・・」
「あれっ、電卓、準備したはずだったんだけど、出し忘れちゃったのかな、すみませんね」
ヘラヘラと笑いながら言われ、私はげんなりした。もう二度と会うことは無い男に対し、怒る気力も残ってない。
「計算が間違ってても、責任とれませんよ」
私はふてくされながら売上金が入ったタッパを男性に返した。
イベント後、私は出版社ビルの階下の書店で、一人むなしくむっちゃんのデビュー作を購入した。サインのひとつももらえなかった。
高校生の時はいつも隣にいて、仲良くしていたむっちゃん。
さっきだって、隣にいたはずなのに。
いつの間にか住む世界がこんなにも違ってしまっていることがさびしくて、胸が締め付けられる思いがした。
それ以来、私からむっちゃんに連絡をすることは無く、むっちゃんからの連絡も途絶えた。
私とむっちゃんの縁は切れてしまったのである。
最初のコメントを投稿しよう!