06.それだけで十分に

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06.それだけで十分に

 翔太の母親はたしかになかなか家に戻ってこない。どこかへと行ったっきり、何ヶ月も戻らないことが普通だった。  翔太は物心つかない頃から母方の祖父母の元に預けられた。祖父母は喫茶店を営む一方で、幼い翔太の世話に追われた。  翔太の母親はときどき気が向いたときに戻ってきた。一階は『純喫茶 あまがさ』の店舗、二階は祖父母の自宅であり、翔太の母親の実家という家に。  母親がどこに行き、何をしているのか。子どもの頃の翔太には謎だった。翔太にも母親の動向がわからないということは、同じクラスの同級生の親たちにとっても大きな謎だったに違いない。  もちろん、大人のあいだで密かに交わされるウワサ話などはあったが、そんなウワサ話など翔太が知る由もない。  とにかく同じクラスの子どもたちにはとりあえず両親がいたし、離婚経験がある子にしても父親か母親の存在が必ずあったから。  だからこそ、小学校で同じクラスになった子どもが、そんな母親を持ち、さらには父親の姿などまったく見えない、そして祖父母に育てられた翔太のことを敬遠して行ったのも当然なのかもしれない。  そういう理由で、ヒロムの母親が口にした「自由」で「ちょっとうらやましい」という言葉が、小学生だった翔太の胸に不思議に響いたのも事実だった。自分の母親のことを「うらやましい」と言った大人と出会ったのは、それが最初で最後だったから。  翔太からすれば、ヒロムの方がずっとうらやましかった。ヒロムの父親は高校の教師で、母親も平日の昼間は近所の会社にパートに出かけていた。普通で平凡などこにでもあるような家庭だった。  翔太から見ればそれだけで十分にうらやましい家庭だった。どれだけ手を伸ばしても、永遠に捕まえることも届くこともない暖かな風のように。
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