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売れっ子漫画家・平井コタロウはタブレットを前にして固まっていた。画面の中の原稿データは真っ白だ。
おかしい、三日後の締切に向けて昨日まで確かに新作を描いていた。バックアップも取っていたはずなのに、それすら無い。
コタロウはタブレットを置いて、デスクの上を漁り始める。デスクの上には雑多なメモや資料の分厚い本、栄養ドリンクの空き瓶に子供の頃から好きだった名探偵のフィギュアが無造作に散らばっている。コタロウはそれらを引っ掻き回して、ようやく山積みの資料の中からスケッチブックを引っ張り出した。
しかしいくらめくってもスケッチブックはタブレットのデータと同様に真っ白だ。ここでいよいよコタロウの手は震えてきた。ここに今度の新作のキャラクターを何枚も描いていたはずだ。
コタロウは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、今いる仕事部屋の本棚、アシスタントのデスク、ノートパソコンのデータも探し回る。しかしその新作を描くために書き溜めたメモ、集めたはずの資料、それらもすべて消えていた。
いや、それだけじゃない。
そもそもコタロウ自身がその新作のアイデアを一切思い出すことができない。昨日まで確かに快調に描いていたというのに。
データも資料もメモも記憶さえも、すべて消えている。まるでこの新作がこの世に存在していないかのように。
小学生のときに『小江戸川らんた』というペンネームで学級新聞に描いて以来、コタロウは十五年間漫画を描き続けているが、こんなことは初めてだ。
そもそもコタロウの今回の新作は描く前からおかしかった。
『平井コタロウ先生、新作マンガ進行中! 震えて待て!』
週刊少年漫画誌の公式SNSにそう書き込みがされたのは三ヶ月前。その当時コタロウは長期連載していた作品が終わり、何も考えていなかった。
それなのに担当編集の原田君が打ち合わせの時にコタロウが発した『アイデアならたくさんあるから、新作はすぐ描けそう』と言ったことを拡大解釈したらしい。原田君はそのときの打ち合わせで、コタロウが提案した『妹を殺された高校生の兄が犯人たちに復讐する話』をボツにしたばかりだというのに。
その一ヶ月後にコタロウが気づいたときには、SNSですっかりその情報は拡散されていてとても否定できる状況ではなかった。『震えて待て』は、『乞うご期待』という意味だが、コタロウは声を大にして言いたかった。「新作なんて無い俺の方が震えてるよ······!」と。
平謝りしながらも原稿を懇願してくる原田君との電話を終えた後、頭を抱えたコタロウは、ふと漫画誌のSNSを見た。
「『震えて待て』かーー」
その瞬間ひらめいた。ひらめいて、描き始めたのだがーー。
「お困りのようだね、先生」
不意にどこから声がして、コタロウは部屋を見回した。アシスタントは今日はまだ誰も来ていない。今この部屋には自分しかいないはずなのに、一体誰が?
「後ろだ、先生」
コタロウは振り向いて、目を見開いた。
部屋の隅の本棚の前に背の高い男が立っていた。年はコタロウと同じく二十五歳くらいだろう。キリリとした顔の美青年で、スーツを着ている。が、やけに白い。顔も髪もスーツですら真っ白だ。顔のパーツや輪郭、服の線なんかは黒いが、他は全部真っ白だ。それに体が妙に薄い。紙みたいにペラペラだ。というより男は紙に描かれたイラストーー漫画のキャラのようだった。
「えーと、あなたは······?」
コタロウは目が点になる。紙に描かれた美青年が目の前でしゃべっているのだから驚くなという方が無理だ。
紙の男はコタロウの反応を予想していたかのようにうなずくと、口を開いた。
「私の名前は小六郎。漫画から出てきた、漫画の中の問題を解決する私立探偵だ」
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