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僕はブースに入った。ブースには僕と、アシスタントの芦谷睦実アナウンサーの二人がテーブルを挟んで座っている。テーブルの中央には一人一本ずつマイクが置かれ、僕らはそこに向かって喋る。
「おはようございます、紀美野さん」
芦谷さんは手許の原稿から顔を上げて挨拶してくれた。どことなく、雰囲気が暗い気がした。
「おはようございます」
僕は挨拶を返して自分の席に着く。
「あの、紀美野さん。聞きましたか、ラジオのこと……」
「はい、さっきマネージャーから」
「そうでしたか。わたしもさっきディレクターから。毎週楽しかったので悔しいです」
「僕もですけど、仕事なので」
「はい。あの、実はわたし、別のラジオのレギュラーが決まったんです。新番組ではないんですけど、アシスタントを務めていたアナウンサーが育休に入ることになってそのタイミングで番組もご卒業されるので入れ替わりで」
「そうなんですね、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
悔しいとも言っていたけれど、芦谷さんは嬉しそうだった。そういえば、去年の忘年会で「有名な番組のアシスタントでもできたらいいですよね」とお酒に酔って言っていた気がする。自分の冠番組が無名みたいな言い方が若干気になったけれど、芦谷さんも次のステージに行けるのだ。さよならは悲しい言葉じゃない、なんて歌詞も誰かが書いていたっけ。何かが終わるということは何かが始まるということでもある。あまり終わることばかりに執着してはいけない。
「本番五秒前、四……」
スタッフから声が掛かった。三秒前からは余計な音が入らないようにガラス越しに指でカウントダウンされる。三、二、一―――スタート。
オープニングの音が鳴り始め、しばらくすると徐々に小さくなり、スタッフからゴーサインが出される。
「はい、本日も始まりました、『紀美野相良の君に会いたい!』。お相手を務めますのは俳優の紀美野相良と」
「アシスタントの、芦谷睦実です」
「「よろしくお願いします」」
本日の放送が始まった。ここから三十分生放送である。
最初の五分は軽いオープニングトークだ。今週の出来事を自由に話す。かと言って、番組の終了については話せない。迷った結果、今日は飼っている愛犬の話をした。この番組以外でも、雑誌やテレビのインタビューで話題にしているから、僕を応援してくれているファンの人だったら愛犬のことは知ってくれている。
「さて、本日の企画はラジオメールコーナー!」
「この企画はこの一か月で読み切れなかったリスナーさんからのお便りを時間の限りご紹介するコーナーです」
ありがたいことに、この番組には多くのラジオメールが届く。絶頂期は1回の放送で一万通届くこともざらにあった。毎回番組後半でその中から2、3枚は読んでいるのだが、それだとほんの一部しか紹介できない。そのためより多くのお便りを紹介するために、僕の要望で月に一度ラジオメールの紹介だけをする回を設けてもらったのだ。……とは言ったものの、今は週に50通くるかどうかだ。一週間で読み切れる量ではないが、全盛期に比べると見劣りする。
「さあ今月もたくさん読んでいきましょう。最初のお便りは……」
僕と芦谷さんはスタッフからもらった資料を一枚めくる。そこには厳選したラジオメールが書かれている。
そして、お便りを読むのは芦谷さんの役割だ。
「ラジオネーム、難攻不落さん」
「あー難攻不落さん! いつもありがとうございます」
難攻不落さんはこの番組の、いわゆる”常連ハガキ職人”だ。番組が始まったころからずっとメールを送ってくれていて、プレゼントのポストカードや缶バッチも何回かお送りした。僕と芦谷さんだけではなく、志藤さんや番組のスタッフの間でもよく知られていて、正直この人からのメールは嬉しかった。
「『紀美野くん、芦谷アナウンサー、こんにちは』」
「「こんにちは」」
「『先日、気になるニュースを見つけてしまったので、居ても立っても居られず、パソコンの画面に向かっています。週刊誌の記事です。『紀美野相良の君に会いたい!』の番組が終了すると書いてありました。こんなことを番組のメールにお送りするのは良くないと思ったんですけど……本当でしょうか?」』
ギクッとした。
芦谷さんも同じように感じたのか、読む声の調子だけは変えず、資料から顔を上げた。表情は引きつっている。
何とか間を繋がないとと思って、「週刊誌も読んでくださってるんですね、ありがとうございます」と言いながらスタッフルームを見た。スタッフさんたちはきょろきょろして動揺している様子だが、プロデューサーさんだけは冷静を装ってGOサインを出した。「そのまま続けて」の指示だ。それを見た芦谷さんは頷いて、資料に目線を戻した。
「『週刊誌の記事なので真偽は分かりませんが、もし本当だとしたらとても悲しいです。きっと他のファンの方も同じだと思います』」
それは僕も同じだ、と心の中で思う。
「『でも、きっと紀美野くんや芦谷アナウンサーが決められることじゃないんですよね。僕にはよく分かりませんけど、リスナーさんの数とかいろいろ。不可抗力みたいなものなんだと思います。お仕事ですからね、そういうこともあります。ただ』」
ただ―――。
「『僕だって筋金入りの紀美野くんファンです。デビューも知ってるし、そのあとだってずっと追いかけています。映画とかドラマだけじゃなくて、テレビや雑誌のインタビューだって目を通しています。だから、僕は知っていますよ。紀美野くんがこのラジオを大事にしていること。厳しいことを言うと喋りも上手くないし、ネタも普通。だけど、いつもラジオメールを楽しそうに聞いてるんです。紀美野くんにとって、リスナーはお客さんじゃありません。友達です。僕のことだって「難攻不落さんだ!」って喜んでくれて。顔も知らないのに……とても嬉しかったです。紀美野くんはお芝居も最高だけど、あれだけ見てるんだから、素のあなたかどうかも分かります。あなたはとても楽しんでいました』」
……。
「『紀美野くん、あなたはどうですか? ラジオ、続けたいですか? 僕は思います。ラジオはファンの声ではなかなかどうにもならないけれど、作り手の声は届くんじゃないかって。僕らファンには続けてくださいって要望を出すことはできないですが、紀美野くんがやりたいことを続ける権利はあると思います。長くなりましたが、これからも応援しています』」
芦谷さんはラジオメールを読み切ると、ゆっくりと資料をテーブルに置いた。
「いや、熱いメールが届きましたね、紀美野さん!」
芦谷さんは興奮して話を振ってきた。
目頭が熱い。僕はラジオが終わることを受け入れていた。楽しいことだけど、仕事だから。利益にできないなら切り捨てられて当然だ。やりたいなら、今の時代、SNSでも何でも方法はある。でも、それではダメだ。温かいけれど緊張感があって、マイクの前で芦谷さんと対面に座って、つまらないネタで物足りないトークを『紀美野相良の君に会いたい!』というタイトルの許でやらないとダメなのだ。僕が自分のSNSとかでやっても、同じ空気は作れない。それを分かっているのは、僕だけじゃなかった。
こういうとき、役者という職業で良かったと思う。僕は一瞬役者モードをオンにして、慌てて涙を引っ込めた。
「ありがとうございます。嬉しいです。僕もね、週刊誌の記事は読みまして、嘘でしょ!って思いました。忖度なしで、大好きな番組なので終わってほしくはないんです。まあ、分からないものですけど。ただ、難攻不落さんの気持ちは伝わりました。ありがとうございます。これからも紀美野相良、頑張ります」
やばい、限界だ。役者といえども人間だ。理性が感情を抑えきれなくなってきた。多分、芦谷さんは気付いている。眉毛をへの字にして心配そうな顔で僕を見ているのが分かった。
「芦谷さん、今日は早めに音楽かけちゃいましょうか」
「そ、そうですね! 今日の一曲は―――」
芦谷さんの言葉で音楽がかかる。今週のヒット曲、といったところだ。
音楽がかかり、僕らの音声が完全にオフになった瞬間、僕は手許にあったティッシュペーパーをサッサッサと取って目に当てた。熱いものが堰を切ったように溢れてくる。
「紀美野さん、今日は音楽、長めにかけてもらいましょう」
芦谷さんがそう提案し、スタッフルームに向けて手を上げた。「ありがとうございます」と震える声で返事をする。ここからCMを含めた五分、僕は思う存分、涙を流し続けた。
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