06.太く長い杭

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06.太く長い杭

 最後に母親に会ったのは、その年の梅雨の時期だった。ひどく雨の降る日、小学校から帰ってきた翔太が店の二階にある家に戻ると、母親が居間で翔太の帰りを待っていた。 「翔太、おかえり」  翔太は突然帰ってきた母親になんと告げるべきなのかわからない。もちろん嬉しさは込み上げる。 「お母さん、帰ってきたの?」  立ち尽くすばかりの翔太の口から、その言葉が出てきた瞬間、母親は翔太を抱きしめ、ケーキがあるから手を洗ってきなさいと告げた。翔太は洗面所で手を洗うのももどかしく、きちんと手も拭かないまま母親の元に飛んで行った。  そんなふうに翔太の母親は祖父母の家にときどき戻ってきた。 「ねえ、もうどこにも行かない?」  その夜、寝床に横になった翔太は、隣で横になる母親にそう聞いてみたかった。けれど、答えはいつも同じだと決まっている。 「ごめんね。お母さんは行かなくちゃいけないところがあるの。翔太も一緒に行きたい? ごめんね。一緒には行けないんだよ」  何度も同じ答えを聞かされた翔太は、同じ質問を母親にぶつけることも諦めていた。翔太が飲み込む言葉は、それだけじゃない。  ずっと僕のそばにお母さんがいてほしい。僕と一緒にずっといてほしい。もうどこにも行かないでほしい。  翔太はそんな言葉を幼い頃から何百回も何千回も口に出してきた。そのたびに母親は最初はやさしく、最後には厳しい口調でダメ、というばかりだった。そのたびに、翔太の心には太く長い杭が深く打ち込まれていった。翔太の心を諦めと無力感ににつなぎとめる杭。  そうして母親はいつも一週間も経たないうちに祖父母の家を出て行った。たいていは翔太が学校へ行ってるあいだに。そんなふうにときどき母親が突然家に戻ってきては、数日やそこらへふたたびどこかへと出て行った。 「どこに行ったの?」  聞くだけ無駄だとわかってはいるものの、翔太は祖母にたずねる。 「おばあちゃんにもわからないのよ」  祖母は実にすまなさそうな顔で翔太にそう告げるばかり。そして、翔太におやつを出した祖母がふたたび店に戻ったあと、翔太はひとりで泣いた。おやつを食べながら声も上げずに。いつものように。
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