セキとの再会

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 何もしたくない。呼吸すらしたくない。  今この瞬間、全てが終わりを迎えれば、どれ程幸せだろうか。  私は冷たく硬いフローリングの上に大の字に寝ころんだまま、意味もなく部屋を見回した。  カーテンは閉め切られ、部屋の色彩は失われていた。  冷蔵庫からビーという小さな電気音だけが聞こえてくる。  あの人から貰った鳩時計はもうない。  私はこの灰色の部屋の中で、まだなお暗闇を求めた。  そばにあったタオルケットを顔にかけ、そっと目を閉じると、私はただ仕方なく息をした。  ***  らせん状になった黒いコードを引き延ばし、『昇』ボタンを押すことで、私は愛車を呼び出す。  本来今日は、私の運命が決まる日だったのであろう。そんなふうに思うだけで、年甲斐もなく緊張してきてしまう。  いくつになっても物事を白黒させることは恐ろしいことだ。曖昧なままがいいこともある。  あの人ことを思うと、今まで積み重ねてきた思い出たちが、すぐに頭の中を駆け巡る。そしてその色とりどりの思い出たちが、私の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。  車のドアを開けると、ピピとロック解除の音が鳴る。私は頭をぶつけないようにゆっくり車へと滑り込む。シートにゆったりともたれ、いつものトラックとは勝手の違う操作性を感じながら、アクセルペダルを軽く踏み込む。静かなエンジン音とともに、私の愛車は目的地へと進みだした。 「今日は関に伝えたいことがあって会いに来た」  きっと今日は久々のデートということになるだろう。  もともとあがり症の私は、セリフの練習でもしておかなければ、あの人の前でおそらくかたまってしまう。こんな簡単なセリフを一つ練習するだけで、手に汗がうっすらと滲み、顔が少し熱を帯びる。それにどうしたって恥ずかしくて、未だに名字であの人を呼んでしまっている。  全く私は何歳なのだろうか。  少し心を落ち着かせるために、胸元のポケットから煙草を一本取り出し、火を点ける。  あの人に会うことが何故だかとても懐かしく感じてしまう。 「この間も二人で会ったのにな……」  どうやら私は独り言が癖になってしまっているらしい。客観的に見て、やはり独り言が多いというのはじじくさいのかと、少し心配になる。そう思ったそばから、独り言が口をつく。 「しまった。もう遅いな……」  慌てて火を消す。折角準備してきた、大切な一張羅に臭いをつけてしまったことに後悔する。  あの人はタバコが嫌いだ。  いつだったかあの人は私に「吸ってる姿はかっこいいと思うよ」と言ってくれた。でもそれは、本当は吸わないでほしいという気持ちの優しい裏返しでもあった。 「あぁ、勿体ないことした」  今日はあの人のために、花束と秘密のプレゼントを持ってきた。あと一応、二人で乾杯するためにと思って、私のブラックコーヒーと、甘いのが好きなあの人のためにカフェオレを買ってきている。  正直ここまでしてあの人に喜んでもらえなければ、私の立場がない。  到着までは、大体二時間くらいだろうか。普段の丸一日にも及ぶ運転と比べればかわいいもので、時間厳守の必要もない。  そもそも普段から長い間、一人でいれば、独り言が癖になっても仕方ないはずだと、ふと私は思った。  それはそうと、私は久々に運転というものを純粋に楽しめているのかもしれない。きっと同僚には人気のない私の愛車が、快適で爽快なドライブを演出してくれているからに違いなかった。    ***    ある時この愛車について、私は同僚から「リョウは可愛いものが趣味なんだな」とからかわれたことがあった。確かに私の少し大柄な見た目には不釣り合いなのかもしれないが、愛車がミニだから可愛いものが趣味というのは、余りにも安直ではないだろか。確かにミニのフォルムからはかわいらしい印象を受けるかもしれないが、それとは違って、近未来的な内装や、ステアリングの重厚さとか、確かなかっこよさがあるのだ。そのギャップこそが魅力なわけで、ミニ=ただ可愛いは大きな間違いであるのだ。  しかし、その場で同僚に、受け売りの魅力語りをする勇気もなく、その時は何も言うことはなかった。ただいつも言っているが自分の名前はリョウではない、テキトーに覚えるなとは、その時も諦めずに同僚に言ってやった記憶がある。  実はこの愛車は過去に何度か、事故に遭っている。その都度その都度処分することも考えたが、修理にかなりの金額をつぎ込み、私は今でも乗っている。今はまだこれが正しい選択だったのかどうかよく分からない。  何はともあれ、今私は気持ちの良い満足感に包まれていた。  ***  苦しくなって、かけていたタオルケットを雑に投げ飛ばす。  私の中を今まで支配していた虚無感は、理不尽な怒りへとふつふつ変わっていった。  怒りは言葉に化け、突如として口をこじ開け飛び出していく。 「どうして!!」  勢いに任せて、エアコンのリモコンを壁に投げつける。壁には傷一つつかない、まっさらなままだった。それがまた私の怒りを掻き立てる。 「どうすれば良かった!?」  意味もない言葉が口をつく。どうすれば良かったかなんて、誰もわかるはずがなかった。でも塵のように小さくとも、何か一つ、たった一つでも原因を見つけなければならない。そうしなければ何も始まらないし、私の嗚咽が止まることもないだろう。  私はまた冷たいフローリングにへたり込んだ。 「会いたい……」  ***  目的地まではまだ少し時間があった。  気づけば少しばかり道路が滞り始めていた。  私は意味もなくラジオを点けると、大学の文化祭で披露した曲が流れていた。  この退屈な時間を有意義に過ごすためにも、私はふと懐かしい日々を思い返してみた。  ***  私は大学入学と同時に、高校時代から付き合っていた人に愛想を尽かされ、新たなライフステージで早々に無気力と化していた。そんな時に同じ音楽サークルで出会ったのがあの人だった。  もともと親が音楽をやっていて、ギター、ベースにドラムとひと通りできた私は、キーボードに興味を持っていた。そしてそのサークル内で一目置かれ、キーボードを担当していたのがあの人だった。  一目置かれている理由はすぐに分かった。新歓ライブのステージで小気味よく鍵盤を鳴らし、軽快にリズムに乗るあの人は、幼いころからピアノを習っていたらしく、他のメンバーとは明らかにレベルが違った。でもそれを鼻にかけることなく、ただ純粋に全力で、楽しそうで、まぶしかった。  そんな強烈な印象とは裏腹に、私は初めてあの人と話した時のことをあまり覚えていない。失礼な話だが、一度ステージから降りると、存在感がミジンコと化してしまうのだ。そうなればあの人は、物腰柔らかで、皆に優しい一般人になってしまう。  今思えばその分かりやすいギャップに面白さを感じて、あの人に興味を持ち始めたのかもしれない。  私がそのサークルに入ってからしばらくの間、あの人との接点は、あくまで、キーボードをただ優しく教えてくれる人と教わる人ということでしかなかった。しかしその関係性が一変する出来事がすぐに起こったのだ。  私たちの音楽サークルは、他とは違い、四月や五月頃に新歓を行わなかった。一年生の新入部員がこれ以上は増えないというところまで待ってから、新歓を行うのが通例だった。  六月に入り、もう大体の学生は大学での自分の居場所を確保し終えていたとき、部長から「やるぞ」と一声かかり、新歓が行われることになった。  この新歓は、何も珍しいことはなく、イメージ通りのものだった。  場所は毎日お金に困っているような大学生にも安心な大衆居酒屋で、一年生はほぼほぼ全員が参加していたが、先輩達はまばらな参加率だった。そんな少ない先輩達の中にも、あの人はそこにいた。  会が始まると手始めに、一年生がこぞって自己紹介をしだした。皆一様に、没個性的になりすぎないようにと特技を披露するものや、渾身のものまねを披露する者がいた。そんなやる気を見せられたからか、私は少し気後れしていた。  自分の番を迎えた私は、まさに没個性の手本となるような自己紹介をして、その場をやり過ごそうとしていた。しかし運悪く、一人の先輩に捕まってしまった。  その先輩はベタなことに、「面白いこと言って」と言ってきたのだった。まだ酔っているわけでもないだろうに、随分と恐ろしいことを言ってくる人がいるものだなと思った。  私のあがり症はしっかりと発症してしまい、一言も話せなくなって俯いていると、あの人は「あんまりいじめないであげなよ」とこれまたベタに助け舟を出してくれた。今思えば、絵にかいたような出来事だったなと思う。でもあの時、純粋に心から感謝したことをはっきりと覚えている。しかしこれが私とあの人を結び付けたわけではなく、事件はさらにその後起きたのだった。       私は結果的に人生初めての酒を飲むことになり、完全に出来上がってしまっていた。  一人では心配だということで先輩達に途中まで送ってもらうことになり、そのおかげもあって、無事家路につくことができた。  やっとの思いで部屋についた私は、ベッドへとなだれ込んだ。  少しだけ気持ちが悪い気もするが、吐き気はまだもよおしてはいなかった。  私は何時か気になり、ケータイを探したが、ポケットの中にも、通学用のリュックの中にもどこにも見当たらなかった。絶望した私が、ケータイを探すことにも嫌気がさして、いっそのこと寝してしまおうと思った時だった。  一階にある家の電話が鳴った。  正確な時間は分からないが、間違いなくその時は真夜中のはずだった。こんな時間に一体誰だろうと不信感を抱きながらも、家族を起こしてはいけないと、少しだけ緊張しつつ受話器を取った。  「畑さんの家で間違いないですか?」と細く、透き通った声が聞こえた。私は誰だかわからないが咄嗟に「はい」と言ってしまった。 「私、畑さんと同じ大学の――」  まさにこの声の主こそあの人だった。  あの人は私がケータイを忘れていったことに気づいて、申し訳ないとは思いつつも、そのケータイの電話帳から自宅を見つけてかけたと言っていた。  私はしどろもどろになりながら、酔っていて全く気が付かなかったとあの人に謝った。そうするとあの人は、謝らないといけないのはこっちの方でと断った後に、「うまくいったらまた君と話せるかもと思って、寝ている君のバッグに携帯返さなかったの。ごめんね」と言ったのだった。  私はその時、一気に酔いが覚めた気がした。  ステージの時以外は、とにかくまじめで優しいあの人が、そんなことを言うなんて一ミリも想像できなかった。  単純にもこの電話で間違いなく、私はあの人を好きになってしまったのだ。  ***  私たちは、ありふれた青春体験を経て、お付き合いすることになったのだ。 そこからは特別なことがあったわけではないが、共に時間を重ねていくたびに、あの人の魅力を知っていった。  ただ時間を重ねてもなんだか恥ずかしく、先輩はとれたものの、私はあの人を名前で呼べなかった。  私は特に、他愛もない会話をしながら一緒にコーヒーを飲むことが大好きだった。お互いに何か大したニュースがあるわけでもないが、あの人と話せば、どんな話も楽しくなった。あの人はいつだって、私の目をじっと見つめて話を聞いてくれた。その時間はとっても幸せで、かけがえのないひと時だった。  周りのどうせ二か月で別れるという意見とは裏腹に、大学卒業後も私たちの付き合いは続いた。  その後私は大学卒業後一般の中小企業に勤めていたが、どうにもこうにも会社とのそりが合わず、二年で退職してしまった。その時もあの人はまっすぐに私の目を見ながら、「君が良いなら、それ以外に良い選択肢はないよ」と言ってくれた。  そして私は、人間関係にあまり重きを置いていない職を探し、今のトラック運転手に落ち着いた。労働環境は過酷なものであることに間違いはないが、私の性分には合っている気がした。  当然の結果ではあるが、今の職に就いてから、私たちの会う頻度は大幅に減った。それでもあの人は「自分に合う仕事を見つけられたなんて、幸せなことだよ」と優しい言葉をかけてくれるばかりだった。  ***  懐かしい日々をなぞりながらミニを走らせていると、辺りは土から天に向かって伸びる背の高い木々に囲まれていた。木々の葉にあたたかな日差しが当たり、道をまだらの陰が埋め尽くしている。 「気持ちいいな」  ここまでくると、交通量もぐっと減っていた。  目的地は、このうねる山道を越え、田んぼに挟まれた一本道を行った先にある。  この道を走るのは初めてだが、なぜだかとても懐かしい気がした。  窓からは、太陽であたためられた土と野生の木々のにおいが混ざり合った、新鮮な空気が勢いよく入り込んでくる。  私は確かに心が休まるのを感じていた。  前方には遮るものが何もない、広い一本の田舎道がもう見えてきていた。  もうすぐ会えるのだ、あの人に。  ***  どうやらしばらくの間眠ってしまっていたらしい。動きたくはないが、フローリングと接していた体が悲鳴を上げているため、無理やり上半身だけを起こす。今は両腕で体を支えることすら精一杯だった。  心は摩耗しきり、自分が今喜怒哀楽の何を感じているかわからない。  自分が眠りから覚めてしまったことに激しい後悔を覚える。  全て終わりにしてほしかった。自分では終わらせることができないから。  私はもう一度だけ力を振り絞ってなんとか立ち上がり、閉めきっていたカーテンを開け、窓を開ける。外もうすっかり暗闇に包まれ、雨が降りしきっている。雨の音以外は何も聞こえない。下の道路を見下ろすと、小さな街灯がポツポツと点滅していた。外には誰もいない。  あの人がいる場所はどこだろうか。今すぐにでも連れて行ってほしかった。  私はベランダの頼りがいのない柵に、右足をかけていた。  一気に勢いを増した冷たい雨粒が、私を激しく打ち付ける。  何もできないことくらい、自分が一番分かっていた。  私の世界は終わることなく、ただ静かに止まっている。  私の頬を熱い雨が伝った。  電源を切り忘れていた携帯から、無機質な電子音が鳴り響いた。 私はありえない可能性にみっともなく縋り付き、受話器に飛びついた。 「夜分に失礼いたします。折り返しご連絡差し上げたのですが、畑さんのお宅で間違いないでしょうか。実況見分に時間を取られてしまいまして、それで現場に――」  私は「はい」とだけ短くつぶやくと、みすぼらしい、よれきった部屋着のままで止まっていた世界を飛び出した。  私はもう一度、あの人に会って言わなければならないことがある。  ***  もう目的地は見えていた。あの人は今、とても良い環境で暮らしている。私の住む場所とは大違いだ。あの都会の排気ガスと人のにおいが入り混じった臭いとは、私も早くおさらばしたいと思っている。  車を止め、外に降り、私は2時間分の体のこわばりをぐーっと伸ばす。  なんだか本当に空気がおいしく感じてくる。  私はふぅーっと息をはき、きれいに区分けされている道を進んだ。 「緊張してきたな……」  さっきまですっかり落ち着いていたのだが、今からあの人に会えると思うとまたすぐに緊張してしまう。でもそれと同じくらい、心は踊っていた。  どうしたって私はあの人を愛しているのだ。  あの人のいる場所を確認しながら、一歩一歩近づいていく。鼓動は一歩を踏み出すのに比例して高まっていく。  もうすぐそこだ。  *** 「久しぶり」  なんだかぶっきらぼうな会話のスタートを切ってしまったかもしれない。慌てて次の言葉を探してみるが、うまく思いつかない。私の練習は無意味だった。  早速我慢できずに、考えていたセリフを言ってしまう。 「今日は関に伝えたいことがあって、会いに来たんだ」 「でも今日で名字で呼ぶのは最後にしないとな」  私はそう言いながら、缶のカフェオレと花束、そして駄目押しのプレゼントである指輪をそっと置く。 「突然だけどさ、私と結婚してください」  あの人がきれいだと褒めてくれた私の長い髪を、柔らかで温かな風が撫でる。  ただのそよ風に勘違いしてしまう私は、もう末期なのかもしれない。 「あなたができなかったプロポーズ、私したよ。あの指輪はさすがにぐちゃぐちゃだったからね。新しいの買ったんだよ」  もう枯れきったと思っていた涙は、私の頬をまたゆっくりと伝っていた。 でももうあの時の涙とは違う。 「もし良かったら、あなたの答えを聞かせてください」  どれ程私が頑張って話してみても、関からの返事はない。  でも確かに、間違いなくそこには、関と刻み込まれたがあった。
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