内部告発

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「どうした、シケた顔をしやがって」  僕の後ろから声を掛けてきたのは中島さんだった。もう60を超えているが、あの試験のときも積極的に手伝ってくれた大先輩だ。  あの試験から3日後、たまには早く帰るかと夜道を駅に向かって歩く途中だった。  よほどに酷い顔をしていたのだろうか。 「いえ、まあ」  適当に濁すが。 「例の新型機だろ。あれは確かに危うい」  やはりベテランの目は誤魔化せなかったか。だが社内的には『開発成功』ということで量産化が始まろうとしている。もし市場で使われて火災でも起きたら。  そう考えると内臓が絞られるような恐怖に襲われる。 「ここだけの話、内部告発も考えてい……」 「やめとけ」  中島さんは僕がそこまで思い詰めているのを察知していたのかも知れない。 「いや、しかし」 「内部告発は裏事情やデータにアクセスできる人間が限られるから、どうやってもが特定される。お前の犠牲が大きすぎる。」  それを言われると辛いものはある。公益通報者は法律で保護されるとは言え、社内の突き刺すような冷たい空気に耐えられまい。  少なくとも異動(させん)と、昇進の道は確実に絶たれる。下手すれば自主退職だ。将来の『お金』が犠牲になる、つまり。  自分だけでなく、家族も多大な犧牲に晒される。 「……うちの会社は可怪しいですよ」  ついは愚痴がでる。 「現場を何も知らない人間が管理職になって、何の根拠もない精神論だけで数字を決めてしまう。それで達成できなければ全部、下っ端の職務怠慢扱いなんですよ。僕らは神様じゃないから、無理なものはどうしたって無理なのに!」 「まあな」  中島さんはサラッと受け流したが。 「利益…利益、利益と、儲ける話が全てに先行しているんです。『法律を守ってたら儲からない』って堂々と言う役員もいます。どれだけ儲ければ気が済むんでしょうかね」  これを黙っていろと言うのか。だが中島さんは僕と温度が違うようだ。 「オレが生まれた頃には家にエアコンなんてなかった。ま、今ほど暑くもなかったけどな。自宅に最初のエアコンを取り付けたのは、オレが社会人になってからだ」  高度成長期、エアコンは『3C(※カー、カラーテレビ、クーラー)』の一角として憧れの象徴だった。  しかしそれも今や一家に一台どころか各部屋に一台ずつの世界。 「『ありえない理想』を求めているのは、うちの経営陣だけじゃあない。社会全体なんだ」 「それは……」 「高度成長期やバブルを経験した人間は『理想は強く願えば叶うものだ』という成功体験を持っている。だがそれはただの経験則で科学的根拠があるわけじゃない。だが人は無条件で。  心理学で言うところの『正常化バイアス』というやつだ。人はときに現実を無視して世界が自分にとって都合よく回ると信じてしまう。ギャンブルのように。 「だが何処かでブレーキは要る」  中島さんの右手が僕の左肩をポンと叩いた。駅の改札機がカードキーのタッチでピロンと鳴った。 「焦るな。灰沢はそこまで愚かじゃないさ」  そう謎の言葉を言い残して、中島さんは反対側のプラットフォーム目掛けて階段を登って行った。
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