30.チョコレートドーナツ

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30.チョコレートドーナツ

 ミレーネ・ファーロングから電話があったのは、私がチョコレートドーナツを作っている最中だった。  あとは油で揚げるだけ、というところで電話が鳴ったとメイドが飛び込んできたので私はベティに残りの作業を頼んでそちらへ向かった。ぷかぷか浮いてくるドーナツをこの目で見れないのだけは残念。  電話の内容はお茶の誘いだった。  私は快く承諾し、せっかくなので出来立てのドーナツを持ってファーロング公爵家を訪れることにした。 「ミレーネ様!」 「こんにちは、イメルダ。ミレーネで良いのよ」 「素敵なお庭ね」  私は窓から見える広い庭園に目を遣る。  ファーロング家は王都の中心からは少し外れた森の近くにあった。自分が、レナードの婚約者とこうして仲を深めるのは胃がキリキリ痛むことではあったけれど、ミレーネは話す限りではとても感じの良い令嬢だ。  そして、こんな風に壁を作らずに積極的に関わり合うことで私は自分自身も前へ進める気がした。何度も思い返してしまう秘密の夜を封印して、前へ向けるのではないかと。 「………貴女に相談したいことがあるの」 「相談?」 「ええ。初めて人に話す内容なんだけど…」 「……?」  瞬きをして言葉を待つ。  美しく色付いたミレーネの唇を見つめた。 「私は宝石や鉱物が大好きで、集めているわ」 「うん…以前、お話してくれたわよね」 「石は私を裏切らない。常に期待以上の輝きを返してくれるから。それって素晴らしいことでしょう…?」  私は彼女の意図するところが分からず、ただ曖昧に頷く。  ミレーネの部屋には様々なショーケースが飾られており、透明なケースの中には彼女が趣味であると語ってくれた美しい石たちが綺麗に並べられていた。  親切なことにカミュにまでお茶とお菓子を用意してくれたミレーネだが、今日はどことなく悲しげな顔をしている。何かあったのか聞くべきか、それとも彼女が自ら打ち明けるのを待つべきか私は考えた。 「私、レナードとの結婚を止めようと思うの」 「え……?」  咄嗟にミレーネの顔を見る。  人形のように美しい白い肌の上で、アメジストを彷彿させる紫色の瞳が潤んでいた。  すぐに浮かんだのは、自分とレナードにあったことを彼女が知ったのではないかという疑惑。他の人からの話でそれを知ったのであれば、彼女はひどく傷付いたはずだ。自ら明かすことではないと黙り込んでいたことを後悔した。  ドクドクと速まる心臓に手を当てた。  ミレーネの言葉の続きを待つ。 「やっぱり、向いていないから」 「向いていない…って?」 「彼と私ってまったく合わないの。レナードは自然の中で馬や犬なんかと触れ合うのが好きみたいだけど、私は動物って苦手。昔、豚の糞を踏んで以来、家畜って嫌なの」 「だけど、無理にすべて合わせる必要は……」 「イメルダ、それだけじゃないの」  少し間を取って、ミレーネは右手を上げる。  柔らかな手が、机の上に置いた私の手に重なった。流れ込む体温に心臓が高鳴る。何を言うつもりなのだろう。ミレーネは、この澄んだ瞳の奥でいったい何を。 「レナードには好きな人がいるようだわ」 「………!」 「そして、私にもまた、彼以外に好きな人がいる」 「……貴女にも?」 「そうよ。私たちはお互いがお互いを見ていない。それぞれが婚約者以外の人に心を寄せてるの」  驚いて、すぐに言葉が出なかった。  ただ、重なる手を見つめる。 「私は偽物は要らない。宝石だって同じことよ。偽りの結婚をするぐらいなら、一人で居た方がマシ」 「レナード様は…このこと、」 「彼とも話し合ったわ。こういう点はお互い考えが合うのよね。自分の気持ちも正直に話したの、彼のことを愛することは出来ないって」 「………そんな…」  レナードとミレーネが婚約を白紙に戻す。  それがいったいどんな意味を持つのか、冷静に考えることが出来なかった。回らない頭でぼんやりと話を聞く私を相手に、ミレーネは「これは婚約破棄ではなく合意の上での取り消しだ」と強く主張した。  私は、どうすれば良いのだろう。  ここぞとばかりにレナードに接近して自分の気持ちを伝えるなんて、あまりにもミレーネに失礼過ぎる。デリックとも恋人契約を結んだばかりだし、意中の相手がフリーになった瞬間に切り捨てるなんて都合の良い話。  自分の中だけに閉じ込めようと思っていた気持ちが、静かに燃え上がるのを感じた。目を閉じて押さえ込もうとしても、どうしてか今までのようにはいかなくて。
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