05.結晶

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05.結晶

「最悪だ、最悪。娘の結婚は白紙に戻るし…いや、白紙どころかグシャグシャに握り潰されて泥水の上に捨てられたみたいだ。おまけにドット商会の奴ら、うちが扱っているタイプライターの廉価版を新商品として売り出しやがった!」  束の間の眠りから目覚めて階段を降りて行くと、踊り場まで来たところで電話口で猛烈に憤る父の姿を見つけた。  相手はきっと彼の右腕のリドル伯爵だろう。  泥水から生還した娘の気配に気付いたのか、何事か小声で告げたのちに父ヒンスは電話を切った。 「イメルダ……起きてたのか」 「ええ、お父様。ついさっき」 「着替えたらどうだ?見てられない」  そう言ってヒンスは私から目を逸らす。  私は自分がまだ白いドレスを着ていることに気付いた。 「………お前はこれで良いのか?」 「これと言いますと?」 「あんな大衆の面前で婚約を破棄されて、おまけに馬鹿にするような憎まれ口まで利いたマルクスを許すのか?」 「許すも何も…べつに憎んでなんか、」 「イメルダ、お前は知的で聡明な女性に育ったよ。だが、アニエスのような情熱も時には必要だ。自分を抑え込むな、私はドット家の人間を到底許せない」  そう言って握った拳を震わせるヒンスを前に、私は黙った。  アニエスとは亡くなった母の名前だ。私によく似た銀色の髪に、明るいルビーのような瞳をしていたらしい。らしい、というのは私にほとんど母の記憶がないからで、五歳の少女が記憶できる範囲なんて知れている。  私が憶えているのは、ただ、絵本を読み聞かせる軽やかな声と、私を抱き締める優しい手。遺された写真の中の母はいつも穏やかな笑顔を浮かべていた。美しい人だった。  しかし、そんな母もこと父との結婚に関しては頑固な面を発揮したようで、当時仕事に専念したいと縁談を片っ端から断っていた父に一目惚れしてからは毎日ルシフォーン公爵家に通い詰めたらしい。すでに現役を退いた祖父曰く、その姿はさながら猪のようだったという。 「じきに6000万ペルカがマルクス様より振り込まれるはずです。私はそれ以外は何も望んでなどいません」 「イメルダ………」 「それに…結婚してから別れを切り出されるよりは、傷は浅いです。シシー様ならきっとマルクス様を幸せに出来るでしょうし」 「どうかしてる、あの家はどうかしている!義理とはいえ妹だぞ…!?今まで黙っていたのもタチが悪い」  まだまだ続きそうな父の小言に付き合うには私はあまりに疲れていたので、適当に言い訳を並べて部屋へ戻ることにした。早くドレスを脱いで、楽な格好に着替えよう。  マルクスもシシーも、どうだって良い。  私の頭は、来月行われるレナードの結婚式のことを考えていた。  どんなドレスを着て行こう。黒は縁起が悪いし、白は花嫁と被ってしまうからダメ。赤も派手すぎるとなれば、淡いスカイブルーのドレスなら良いだろうか。大切な友人の晴れ舞台だから、精一杯祝わないと。  部屋へ戻って再びベッドの上に飛び込んだ。  手のひらで白いシーツを撫でてみる。一週間前の夜、この場所にはレナードが居た。私はたぶん泣いていて、レナードもきっと楽しい気持ちではなかったと思う。  感情が滅茶苦茶だったからか、あまり記憶はない。  怪我をした動物たちがお互いの傷痕を舐め合うように、私たちは身を寄せた。たぶん本来あるべき形ではなかったけれど、人肌の温かさは少し私を安心させた。  始まりに一つ、終わりに一つ。  キスをしたのは二回だけ。  けれど、私にとっては十分だった。  それまで抱いていた淡いほわほわした気持ちは私の中で集まって、雪みたいに結晶になった。不恰好なその塊を私は吐き出すことなく飲み込んで隠した。  私がレナードへの想いを自覚したのは、あの日。
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