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16
千渡くんは、一番近くの救急外来のある病院に搬送された。俺は救急車の中で事情を訊かれながら、必死に泣くのを堪えていた。俺が泣くような場面じゃない。
千渡くんは自分で傷は浅いと言い張っていたが、そこは本当だったらしい。
病院の処置室で何針か縫って血は止まった。
犯行に使われたナイフは清潔な、切れ味のよいものだったようで傷口は綺麗だったそう。細菌感染もなく順調に回復するだろうと。
傷の位置は、もしも深く刺さっていたら腹部の大動脈を傷つけるようなものだったらしい。それを聞いて俺はゾッとした。
念のため、俺も全身の検査をうけた。
気づかないうちに細かい打撲や擦り傷が出来ていたようで、簡単に手当してもらった。手の甲がちくちくすると思ったら、小さなガラスの破片が食い込んでいたらしい。軍手ぐらいは自分たちの荷物の中に入ってたはず。
気が動転すると、そんな簡単なことすら思い及ばないのか。
全ての検査や手続き、警察への説明が終わったころにはもう外が暗くなっていた。
これから移動して帰るなんてありえなかったので、番組持ちで駅前のビジネスホテルに一泊させてもらうことになる。
千渡くんのほうは念のために1泊入院したらと提案されていたが断っていた。彼は病院の匂いが苦手だという。
警察と救急車が出動してしまったため、番組スタッフは対応に追われ本当に慌てていた。
申し訳ないと思う反面、ここが現実の、俺の生きる社会なのだということがはっきりと認識できて、少しホッとした。
ホテルの部屋はツインだ。
俺に続いて千渡くんも室内へ。千渡くんはぐったりとした様子で、窓際の椅子に腰掛け目を閉じた。
「はぁ……」
珍しくため息が漏れている。
俺も壁際に荷物を並べると、仰向けでベッドに身を投げ出した。
言葉がでない。
清潔で、静かで、適度な照明。
温かい部屋。
この環境がこんなにありがたいと思ったことはない。
……あのリゾートホテルだって営業していた当時は、人に安らぎを与える場所だったはずだ。
「千渡くん、今は痛くないの……?」
「薬が効いてる。全然平気だよ」
「そっか」
「薬のせいか、それとも血が抜けたせいかわからないけど、信じられないほど体に力が入らない。やっぱり、腹って人体の中でとても大事な場所なんだろう」
「うん……」
俺は10秒ほど目を閉じたあと、思い切って身を起こした。千渡くんに呼びかける。
「自販機でなにか買ってくる。何がいい?」
「大丈夫、もう少し休もう。番組の金なら、そこの冷蔵庫に入っているものを飲んじゃえば?」
俺は壁際の棚下にあるミニ冷蔵庫をあけた。ミネラルウォーターが2本。添えられた紙にはチェックインのサービスだと書いてある。
ひとつを千渡くんに渡したあと、リュックから財布を探した。
「やっぱり自販機に行くよ。俺、甘いコーヒーが飲みたい。缶のやつ」
「そうか……。じゃあ、ぼくはコーラかなにか炭酸があったら」
「わかった」
「礼唯、その前にちょっと来て」
俺は財布を持ったまま千渡くんの側に寄った。彼は手を伸ばしてきたので、俺がその手を握る。ぐいと引き寄せられる。
椅子に座る彼に、抱きしめられる形になった。
「せ……千渡くん、重くない?」
「重くない。負荷もかかってないよ」
ちょっと変な体勢だったが、俺たちはそのまましばらく、体を寄せ合っていた。
「きみが無事でよかった。嫌な想像ばかり頭によぎった」
「うん……。俺も千渡くんのことすごく心配だったよ」
千渡くんの鼻先が俺の耳下に当たっていて、くすぐったかった。
ようやく体は離れたが、なんだか名残惜しい。
「千渡くんはサンルームから消えちゃったあと、どこにいたの……?」
「3階の客室のどこかだよ。気づいたら床に倒れてた。部屋から出ようとしたら彼が入ってきて」
「うん……」
千渡くんはため息をついた。
「彼は、あの女性と婚約してたか元カノだったか知らないけど……、それはきっと何かを隠すため。どうやらたぶん……、社長のほうこそが彼の本命だったんじゃないかな」
「え……?」
「まあ、そしてぼくは口論のすえ刺されたわけだけど……。最後の最後で彼は、なにか気を取られることでもあったのか急に消えてしまった。ぼくは部屋を出て、ロビーのほうで物音がしてたからそっちに行った。そこからは知っての通りだ」
「そっか……」
俺は大きく息を吐き出した。
混乱しながらも必死になって行動したことは、無駄じゃなかった。
諦めなくてよかった。怖かったけれど、頑張ってよかった。
俺のばかみたいな提案にのってしまった千渡くんが、死なずにすんで本当によかった。
「礼唯……」
気づけば、千渡くんが眉を顰めて俺を見上げていた。俺は、頬を伝う涙の感触に気づき、慌ててそれを拭った。
「ご、ごめん……。これはホッとして涙が出ただけ。警察の人たちにも悪いことしたよね。千渡くんを刺した犯人はあのホテル内か外に逃げたことになっちゃったし……。見つかるはずないのに。どうなるんだろう?」
「うん……。礼唯」
「本当にごめん、千渡くん。こんなことに巻き込んで」
「大丈夫、ぼくが望んだことだよ。巻き込まれたわけじゃない」
「う……」
「ぼくときみだけで、ずっと共有できる秘密が出来た。そう思えばこの傷だって悪くない」
これが人生経験の差というやつなのだろうか。大変な目にあった直後にこんなこと言える人は、そういない。
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