ポケットの中

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

ポケットの中

 土曜の朝は、決まって六時に起きる。  本当はもう少し早くても問題ないが、起床後すぐに洗濯機を回す、というルーティンを遂行させる為には、それ位の時間が丁度良い。それに、すぐ隣でぐっすり眠っている彼女を起こしてしまうのは、彼にとって不本意だった。  そっとベッドから足を降ろした彼は、彼女の眠りを妨げぬように細心の注意を払いながら布団を掛け直す。寝相の良い彼と寝相が言うほど良くない彼女が同じベッドを使うと、大体の面積が彼の方へと流れてくる。本当は毎度夜中に確認をして掛け直してやりたいところだが、如何せん彼女の温もりは彼を深い安眠へと誘う。だからこうして、自分が起きた時だけでも、彼女に布団を掛けるようにしているのだ。  早々に着替えを終えた彼が一番に向かうのは、無論、洗濯機置き場がある洗面所だ。先程脱いだ下着とパジャマ、そして洗濯カゴに入っている昨夜分の洗濯物を一気に洗濯機の中に放り込んだ。 ――― 一枚のエプロンを除いては。  ピンクの布地に可愛らしいキャラクターが描かれているそれは、彼女が仕事の時に身に着けている、彼女曰く、戦闘服らしい。  彼は慣れた手付きで右側のポケットに手を突っ込むと萎れた花が力なき姿を現した。こういった物は、後々着色してしまう可能性があるからやめろと言ったのに。彼は小さく息をはくと、その花をそっと洗面台の上に置いた。  次に、もう片方のポケットの中を確認する。すると、見慣れた彼女のボールペンとメモ帳が出て来た。一度、これらをポケットの中に入れたまま洗濯をしたことがある。嫌な音が鳴り響き、粉々になったメモ帳が他の衣服に纏わり着くという散々な目にあった。  ため息をついた彼はボールペンとメモ帳を萎れた花の傍に置いた。  彼は再度ポケットの中に手を入れ何も入っていないことを確認した後、程なくして洗濯機を回したのだった。  彼女のエプロンのポケットの中は、まるでびっくり箱のようだ。それは「面白いもの」が出てくるというよりも、「思ってもみなかったもの」が毎度出てくると言った方が正しい。  真っ赤なミニカーに人形の片方の靴。ぐちゃぐちゃになったうさぎの折り紙に三つ葉のクローバー。ダンゴムシが出て来た時は、年甲斐もなく声を出して驚いてしまった。 「ポケットの中は全部宝物だよ。…でも、ダンゴムシは悪かった。子ども達がまさか入れているとは思わなかったんだ。十数年この仕事をしているけれど、ポケットに入れられたのは初めて。こんな私でも少しゾッとしているんだよ」  それは、彼女と同棲を始めてから間もない頃のこと。流暢に話す彼女とは対照的に眉間に深い皺を作った彼はゆったりとした口調で問い詰めた。 「鼻をかんだティッシュが?それとも捨てるタイミングを逃したお菓子のごみが?」  彼は相当堪えたらしい。  彼女はそっと『 あなたはお巡りさんなのにダンゴムシがそんなに怖いのか』と疑問に思いながも「…それは、宝物じゃないね」と頭を下げた。  正直、その後の彼は、きっと洗濯なんてしてくれないだろうと思っていたが、そう簡単に折れる男ではなかった。彼女は念のために確認を取ったが「あの時は驚いただけだ」「子ども達に命の尊さをちゃんと説明しろ」などと小言で済んだのだった。  彼と彼女の出会いは、正確に言うと中学の先輩後輩だが、学年が二つも離れていた上に、運動部だった彼と文化部だった彼女の接点は皆無。むしろ、同じ中学だと知ったのは、同棲を開始してから既に半年ほど経った頃だった。  エプロン姿のまま意気揚々と交番に入ってきた彼女の瞳は子どものように輝いていた。 「お巡りさんのお仕事の素晴らしさを子ども達に伝えたいんです」と上司に頼み込む彼女の後ろ姿。うっかり「純粋無垢で園児らを愛おしむ可愛らしい先生」と一目惚れにも近い感情を見出してしまった。  その後の話は早い。上司から当てられた彼は彼女と「職業体験」の話し合いを何度か重ねた。ある時は彼女の働く幼稚園で、またある時は彼の働く交番で、最後は雰囲気のいいカフェで。打ち上げは彼のマンションの部屋で行われた。 「この部屋、二人で暮らすには十分だと思う。俺は家事が得意で、特に掃除には力を入れている。洗濯は抜かりなく行う。仕事用のエプロンも毎日アイロンをかけよう。それと、」 「うん。私もそれがいいと思ったの」  一世一代の告白は、食い気味の快諾であっさりと終えた。  ちなみに、後に聞いた「どうして警察の仕事を選んだのか?」という質問には「刑事ドラマにハマっている」という職権濫用にも近い答えが返ってきた。結局の所、彼の惚れた腫れたで全て片付いてしまったのだ。  若いカップルとは違う、そんな二人の生活は意外と楽で快適なものだった。相手の気持ちが分かるような気がした。相手が嫌がることはやらない。困ることもやらない。甘えたい時は、身体を重ねて心の安定を図る。 「私はね、多分あなたが思っているよりも人間が好きじゃない。よく周りからコミュニケーション能力が高いとお褒めいただくけれど、実はずっと黙っていても良いタイプの人間なんだ」  保育雑誌を読みながらつらつらと話す彼女を横目に彼はコーヒーの入ったマグカップを両手に持ちながらキッチンから現れた。 「この家ではずっと喋っているだろう。それにお前にはたくさんの教え子がいる」 「だってここは私達の家だもの。子ども達と話すのは、仕事だからだよ。あなただって、幼稚園ではその固い口角を頑張ってあげていた。鋭い三白眼も三日月型のおめめになっていたよ」 「おめめ、ねぇ」  どうでもいいことだが。彼女と話していると時々職業病ならぬ職業言葉が出ることがある。  その言葉一つに「可愛らしい」「愛おしい」と思うほどに、彼女への愛情が深まっていった。  とはいえ、もう数年つづいている同棲生活に、いわゆる「誓いの指輪」は用意されていなかった。たった今、彼女が、保育雑誌ではなく、ウエディング雑誌を手にしているならば、すぐにでもプロポーズをしていただろう。  ある土曜日の朝。ベッドの上には彼女だけが横になっていた。どうせ彼は六時ピッタリに起きて、早々に洗濯機でも回しているのだろう。エプロンのポケットの中に入っている宝物を取り出してから。  彼が洗濯機を朝に回すのは何も土曜日に限ったことではない。ただ、平日忙しい彼女が朝から彼にじっくりと付き合ってあげられるのは休日の朝ぐらいだ。「今日はリボンのビーズが入っていた。キラキラは人気なんだろうからちゃんと幼稚園に返しておけよ」なんて、彼は微妙に口が悪い割に、優しさは人並み以上だ。  自分の身体に布団が掛け直されているのはきっと彼のおかげだろう。そういう所も本当に優しい人だと思う。優しくて、愛おしい。彼女は人に興味がなく依存もしない。学生時代は何度か告白を受けたことがあるが、他人に自分の時間を渡すなどとても許し難く全て丁重に断りを入れた。就職してからは、色恋沙汰などから掛け離れて一心に仕事の鬼化としている。人間は好きではない、が、子ども達は本当に愛らしい。四つ這いから伝え歩きになった、言える言葉が増えた、喧嘩をするようになった、集団遊びを楽しめるようになった、小学生への意識が芽生えた。そんな些細なことが、ありふれた日常が愛おしくて尊いと思う。  時折、パートのおばちゃん先生から縁談話を持って来ることもあったが全て断った。  職権濫用が使える様になったのは、就職して早数年が経とうとした頃だった。職権濫用と、いかにもいやらしい言葉に聞こえるが、彼女は至って真面目で、彼の言うそれは一度きりしか使っていない。  あの時は、交番に入ってすぐに彼だと気づいた。  いつしかの中学生時代。あのころの面影をしっかり残した―――ファンクラブの人だ、と。  名前どころか苗字も覚えていない彼女は、進んで中学の話をしなかった。彼は何も知らないようだったし、彼女にしても特に必要性も感じなかった。  それでも、ただ一度、たった一回だけ中学時代の彼と話したことを彼女はしっかりと記憶に刻んでいた。 「生徒会長、かっこよくない?顔がいいから投票しちゃった。これで生徒総会の時はいつもあのお顔が拝めるわ!」  当時三年生だった彼は、密かにファンクラブが作られるほどに人気があった。勉強ができて、野球部のエース。顔は三白眼が光る少し怖そうな面持ちだがそれが逆に受けたのだろう。ついでに言えば先日、圧倒的な票数で生徒会長となった彼の評判は右肩上がりだ。彼女は作らない主義らしく、それがファンクラブの熱を燃え上がらせたのは、蚊帳の外にいる彼女でさえ知っている情報だった。  彼の周りには、常に人がいたという印象だ。  ただ、彼女が彼に話しかけたあの時だけは、誰も傍にいなかった。否、用務員の恰好をして花に水やりをしているなんて、誰が気づくだろうか。だから彼女も間違えて声を掛けてしまったのだ。 「この前言っていた花の種。お父さんに言って貰ってきたの」  彼は肩を小さく震わせた後静かに彼女の方を向いた。  用務員さんはおじいちゃんと若いおじさんの二人いて、彼女は刹那、若い人の方だと思ったが、それはいつも噂の中心にいる彼だった。  しばしの間、彼はバツが悪そうにしながらも「渡しておくよ」言い、その長い腕を彼女の方に伸ばした。彼女は慌ててスカートのポケットの中から花の種が入った袋を取り出して手渡す。いつか、ファンクラブで言われた仕来りはこうだ。絶対に一対一になるな。  彼の言葉も聞かず、彼女は軽く会釈をするとそのまま走り去った。これが、彼と彼女のたった一度のやり取りだった。  ベッドから起き上がった彼女は両腕を高く上げて身体を伸ばす。それから、真っすぐ洗面所ではなく、彼の衣服が掛かったクローゼットの扉を開けて中を見渡した。彼は最近、お気に入りの黒のパーカーがある。朝と寝る前以外は、必ずと言っていいほど羽織っている。それに違和感を覚えたのは、数日前のこと。しかし、彼が黒いパーカーを愛用し始めたのは、おおよそ一カ月前のことだ。パーカーの右ポケット。その中に入っている存在を彼女は受け止めなければならない。 「同棲を始める時、あなたと約束したことがあるよね。優先すべきは市民。私はその次だって」 「怒ってるのか。…悪いが見当がつかない」  初めて見る彼の真っ青な顔に少々胸が痛んだ。しかし無駄にフォローしをしていると余計に面倒だと判断した彼女は淡々と話を続ける。 「あの時ね、私も言うべきだったの。ほら、最近は物騒な事件が多いでしょう。自分の親には伝えているんだけれどね…」  話の展開が見えな彼はゴクリと喉を鳴らした。今の彼には、彼女の話を静かに聞くことしかできない。 「それでね。私、きっと身体が先に動くと思うの。不審者が入ってきたら犯人に背を向けて子ども達を守る。それがたとえ人でなく自動車だとしても。優先すべきは子どもなの。同じ職種の友達には重いって言われるし、それが原因でいつまでも独り身なんだって言われた」 「どうして、その話を?」  彼にはまだ、彼女の本当に言いたいことが分からないらしい。 「初めて自分の時間を渡しても良いと思った。だから、私の命の在りかを伝えておきたくて。…ねぇ、そのポケットの中には何が入っているの?」  彼は、例の黒いパーカーを着ていた。右ポケットにはそれなりの重さがあるのか、少し沈んでいる様にも見える。  流石に此処まで来て彼女の意が汲み取れない彼ではない。青ざめていた顔色は、いつしか赤らんで随分と血行が良さそうだ。 「…ポケットの中には宝物が入っているんだろう?そりゃ、俺のポケットの中だって宝物に決まってる」  素直に言えばいいのに、と彼女は心の中で思ったが、それでも十分すぎるほど彼の気持ちは分かっていた。  彼は右ポケットに手を突っ込んだまま、彼女を真っすぐ見つめる。彼女もまた彼をまっすぐ見つめ返した。いい大人が何をしているのだろう。少しこそばゆい気持ちだが、それでも最高に幸せな時間には変わりない。 「そっか!…うん。そうだね。ポケットの中は、宝物が入っているの!」  そう言って笑う彼女を、彼はとても愛おしいと思った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!