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「お客様、ですか?」
満面の笑みで会釈をすると、夫婦と思われる二人は足取り軽くその場を後にした。残ったのは、右手でドアを押さえたまま客を見送る男と私だけ。背を向けられているため、私の位置から男の顔は見えない。けれど、男はこちらに向き直す前にそう問いかけた。
「えっ……」
「さきほどから、うちを見上げていらっしゃった」
相変わらず右手はドアノブを握ったまま、男は私に向かって会釈をした。ノンフレームの眼鏡のブリッヂを中指で持ち上げる。長い手指の隙間から、切れ長の瞳が覗いている。
「どういうお店なのか、少し気になっただけで」
「不思議ですよねぇ。会わせ屋なんて」
「え、ええ」
他人事のような言い方に、この男は店長じゃなくてアルバイトかなにかなのかと思案する。けれど、よくよくスーツの胸元を見ると、そこには店長・香芝と記された厚いプラスチックの名札が付いていた。
店の外観は安っぽいのに、男の立ち姿は整っている。軽く後ろに流した艶やかな黒髪に、シャンプーは何を使っているのだろうなどとくだらないことを考えてしまう。
「ちょうど今、ご予約のお客様が帰られましたので、どうですかお話だけでも。ご相談は無料ですよ」
高く見積もっても四十手前としか思えない男は、老齢の執事のように柔和に微笑んだ。
うっかり頷いてしまったのは、男の見た目に引かれたからでも、寂しかったからでもなく、ひさびさの定時帰りに気が大きくなっていたせいだ。たぶん、きっと。絶対そう。
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