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「知人の中には、私に会いたいと思ってくれている人はいなかったということですね」
「いいえ。先ほどの方が誰よりも、あなたに会いたいと願っていただけです」
香芝の語調は、淹れ直された紅茶よりもあたたかく甘かった。彼にそうさせたのはきっと、自分には見えない私の笑顔だ。
「ですが、他力本願はいけませんね。もしもあなたに会いたい人がいるなら、その人にはご自分の力で会いに行くべきでしょう」
「私が、会いたいと願っている側の人間として扉の向こうに呼び出されることはあるのですか?」
「その可能性は否定しませんが、そうなったとしても記憶は残りません」
「なぜ?」
「会いたいと願っている方からの報酬は頂かないからです。ご来店いただいていない方をこちらの都合で勝手に呼び出しますからね、手順を踏んでいないのです。一から全部説明してご納得いただくよりも、夢の中の出来事として処理する方が後腐れがないのです」
「多少面倒でも、双方から貰った方が商売として成立するじゃない」
「厳密に言えば、これは商売ではありません。道楽なのです。ですので、私は私がやりたいようにしかしないのです」
言いながら、香芝は伝票をそっと差し出した。そこに記載されている金額は決して高くはないものの、申し訳なくなるほど安くもなく。
きっと、客の顔をよくを見て決めているのだろう。
「疑り深い癖にお人好し。詐欺師にとって絶好のカモですよ。以後、お気を付けください」
一階まで見送られた私は、すぐに振り向いた。けれど、そこにはもう黒いドアも、怪しげなうたい文句も存在しなかった。先客には投げかけられることのなかった、余計な一言が私の心にずっと残った。
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