Answer

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 四年も通った大学は一見すれば見慣れた光景で、でも友人のいない大学はまるで異なる国に来たような感覚でもある。  今年から大学院一年目の若菜は四月早々自ら決断した進路を後悔した。院生になったからと言って特に研究もしていない若菜の仕事は若菜の指導教授の捜索と監視だ。今もその教授を探して構内を駆け回っているところだ。あと十分足らずで彼の講義が始まってしまう。  階段の多い構内を駆け回ったせいで足が必死に限界を訴えている。運動不足の大学生にはなおさら辛い。とうとう足を止めて荒れた息を整えていたその時だった。  中庭には隔週で来るキッチンカーが並び、弁当やスイーツを販売している。学生が並ぶ中、頭一つ飛び出ている後姿を見つけた。若菜はふらふらとチュロスの売られている車まで進む。 「何してるんですか、先生」  ん、振り返った彼は無邪気な瞳を若菜に向けた。強い日差しに負けないほど白く澄んだ肌、薄のように柔らかくなびく髪、両手には袋からはみ出るほどの大きなチュロスを持っている。彼の薄茶色の瞳に映る疲れ果てた自分を睨む。 「あー、学生たちがキャッキャして並んでいるのが見えて、僕も無性に食べたくなってね」 「ずっと探していたんですよ」 「君もか」と彼は左手に持っていたチュロスを若菜の前に差し出した。落ち着けと何度も念じるものの眉間の皺は一層深く刻まれる。 「どうしたの? ほかの味が良かったかな。でも絶対プレーンが一番おいしいはずだから、だまされたと思って食べてみてよ」 「……あと五分で講義が始まります。急いでください」  それだけを口にするのが精一杯だった。  はい、と若菜の手にチュロスを押し込んだ彼は右手に持つチュロスをかじりながら颯爽と去っていく。進む方向から次の講義室のある建物だったので講義をさぼることはないようだ。若菜はほのかに温かいチュロスを見つめた。 「もうすでに騙されているんですけれど」  彼には聞こえない声量できちんと悪態をついたのち、若菜は指導教授、馳友志の背中を追った。  身長百九十超、年齢は知らないがおよそ三十歳前後だと予想している。顔立ちも整っている馳はモデルや芸能事務所に何度もスカウトされた過誤があるらしいが、実際には准教授という立場にある。なぜ教授にならないのかと聞けば「向いていない」、「面倒なことは苦手なのよ」と惰性にまみれた言葉を平然と口にする。准教授が務まっているかと問われたら若菜は必ず首を横に振る。  今日の講義も然りだ。「チュロスは講義に入るまでに食べきる」と口酸っぱく警告したにもかかわらず、チュロス片手に「おはよう、学生諸君!」と快闊な声を上げて登壇した際には若菜は完全に冷め切って、レジュメを前列の学生たちに配ることに徹した。  馳はまだ口にチュロスの入ったままマイクを持ち、チュロスがいかにおいしいかを力説してからレジュメに書かれていることを音読するように話し始めた。最後尾に着席して講義を聴いていた若菜も正直興味のそそるものでもなく、学生はその姿が顕著に表れていた。スマートフォンでゲームをする男子たち、しっかりワイヤレスのイヤホンを耳につけて窓外の景色を眺める女子学生、決まりには途中で退席する学生も何人か見えた。  どのような状況でも馳は変わることなく、自らのスタンスを貫いていた。空虚な九十分はあっという間に終わり、きっと誰の記憶にも残らないだろうと若菜は出席表を入れるボックスを回収しながら思った。  そんな体たらくな馳だが、自らの研究には熱心で学会の中では他の追随を許さない存在らしい。世界からも認められ、その思考と胆力に恐れる者もいるほどの絶対的な研究者として名をはせている。そういう一面があるからこそ、彼の考えていることが余計に分からない。 「本性はどっちなのよ」  振り返った先に馳はおらず、若菜の声はやけに寂しく響いた。
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