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馳の研究室は東棟の三階奥、二面に広がる大きな窓があるにもかかわらずひんやりとしているのは窓外を覆う樹木のおかげだ。一人研究室に戻った若菜はゲスト用のソファにどっぷりと腰を下ろした。お尻がソファに吸い込まれるようだ。火災検知器がついた白い天井をぼんやり見上げていると、ドアをノックする音が鳴り、そのままドアが開いた。グレーのスーツを着こなした初老の男が目の前に現れ、若菜は思わず立ち上がろうとするが、足には力が入らず、お尻は吸い込まれたままだ。ジタバタする若菜を手で制した男は朗らかに笑った。
「ご苦労だね、宮内君」
低温なのにすうっと耳に届く声。セーターやベストを着ていたら近所のおじいさんと変わらないこの人こそ、馳の上司、若菜も所属する学部を治める北原誠教授だ。
「ここは相変わらず気持ちのいい空気だねえ」
柔らかい口調で話す北原の前で若菜は姿勢を正して座りなおした。こうして相対するのは大学院の面接の時以来だとどうでもいいことを考えていた。
「それで、馳君は留守かね」
「留守と言うよりは不在、研究室にいることなんて滅多にないですよ。ほとんどが外でほっつき歩いています」
口調の粗くなる若菜を前にしても北原は泰然と笑みを浮かべる。
「昔からそういう男でね。君には迷惑をかけることも多いとは思うが、どうか長い目で見てやっておくれ」
はあ、と腑に落ちない返事で若菜は頷き、ふと顔を上げた。
「教授は先生といつからお知り合いなんでしょうか」
「彼が学生の頃のころかな」
さらりと言われた言葉を理解するのに数秒は要した。馳がこの大学の卒業生だなんて一度も聞いたことがなかった。
「教授は、先生のことをどう思っているのでしょうか」
若菜は恐る恐る訊ねた。若菜でさえ迷惑に感じているが、それ以上に教授は厄介事をしてくれているはずだ。実際に他学部から馳について講義があったらしいが、馳自身は普段通り飄々としており、宥めたのが北原教授だという話は学生たちにも伝わっていた。そんな問題児をどうして守るのか、若菜は気になっていた。
「特別だよ」
たった一言だが、確証を感じる凄みのある声だった。思わず背筋が伸びる。
北原教授は少し目を細めて窓側の机に目を向けた。若菜も自然と同じ景色を見る。
「ここは以前私の研究室でね。馳君もこの部屋の、そう、右側の机を使っていた。彼らは入学時から異質な存在だった。発想も研究内容もこれまでに類を見ないものだった。私がどれだけの時間を費やしても導き出せなかった答えを彼らは数か月で成してしまう。頭の構造が違うんだ。君も近くにいてわかると思うが、話の合う同級生はいなかった。教える立場の私たちでさえも彼らの存在がこの学問の未来だと頭では理解できていたが恐怖だったよ」
若菜は教授の話を聞きながら春休みに呼んだ馳が学生時代に書いたという論文を思い出していた。教授の言う通り、若菜には始めから何を言っているのかわからなかった。その代わり浮かんできたものは「不可能」「世界をひっくり返す」だった。そして、馳はこの論文でまさに天変地異を起こした。これまで人間が信じていたものを真っ向からぶった切り、新たな礎を築いた。
教授が話を止めたので沈黙が流れた。話を思い起こした若菜はある一点に疑問を感じた。
「あの、『彼ら』とは誰のことですか。先生以外にもいたんですか」
教授はしばらく若菜を見つめていた。観察と言っていいような目つきに緊張が走る。
「あの年は」と教授は口を開いた。
「あの年は本当に奇跡だと私の短い人生に刻まれている。神童が二人、同じ学び舎に入り、同じ研究を志したのだから」
開いた窓からひときわ強い風が吹き、景色が変わる。
教授の話が始まり、現代から過去へと遡る。
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