親父のお話

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 朝、6時20分、コンビニの入り口を出る。冷たい缶コーヒーを片手にしていた俺は、4月も終わりに近づいているというのに、まだひんやりと残っていた冷たい風に身震いをした。ホットにするべきだったかな。  スーツや新しい学生服をきた人々が颯爽と駅へと向かって歩いていく。俺は、その中を人混みに逆らいトボトボと歩いた。コンビニの夜勤あけで体の節々が痛い。体を伸ばすとそれだけでフラッとする。フッと息を吐いて体勢を立て直した時、大学生ほどの若い男にぶつかりそうになった。  「あ」っとでたその言葉のあとに「ごめん」と続けて吐き出す前に、若い男はチッと舌打ちしていなくなった。何かを感じる間もなく(はた)による。立ち止まると邪魔になる。  15分ほど歩き、アパートの近くまで来るとまた胃がキリキリと痛くなった。 「まいったな」と呟いて、腹に手を置き温めた。胃は()いてるのか()いてないのか、起きているのか寝ているのか、良くわからない状態だった。胃潰瘍で働けなくなった生活費の穴埋めをアルバイトで埋める。無理がたたって、また胃潰瘍になる。いったい何のために働いているのか?   体が元気なら大体のことはどうにかなったが、50歳が近づき節々にガタのきたこの体、おまけに胃潰瘍。演劇やるために無理したツケが回ってきて身動きがとれなくなりつつある。いや違うな。もう少し真剣に取り組んでいれば……   このまま、ジワジワ埋もれて死んでいく。そんなイメージが頭をよぎる。それを考えないように必死に気を使って紛らわす。そして胃潰瘍だ。終わってる。  ひとまず部屋まであと少しだ。今日もすぐに寝よう。  ふと目を上げると空は澄み渡り、透き通った青色が痛かった。  今から寝るっていうのに、まったく。  安い家賃だけが取り柄の古びたアパート。一番奥の俺の部屋のドアポストには、入りきらなかった少し大きめの茶封筒が差し込まれていた。ガタガタと扉を揺らしながら、その封筒を取り出す。差出人は不明。  ビリビリと封筒を破ると、中には一冊の薄い本が入っていた。絵本だ。しかも手作りのようで、画用紙に水彩絵の具でイラストが書いてある。手紙はなし。中身は手作りの絵本だけだ。 「『たまごのマーゴ、旅に出る』」  絵本の表紙には、子供っぽい丸い字で、そう描かれていた。  そして卵の絵。  ヒョロリと生えた手足がハンプティーダンプティーを連想させるが、その顔は猫のように可愛いく、明るくにっこりと笑っていた。タイトルも絵柄も、まるで俺には不釣り合いで、何故こんなものがここに? と思い少し気味が悪かった。 「『たまごのマーゴ、旅に出る』、そうそれが絵本のタイトル。……え? お前、送ってないの?」  俺は小さな部屋でベットに腰掛けると、実家の妹に電話をかけた。もしかして、隣の人の郵便物だったかも、と一瞬思ったが、封筒の宛名は確かにここの住所、俺の名前が書かれていた。 「お母さんもそんな絵本、知らないって」 「じゃ、だれがこんなもん俺に」 「知らなーい。それより、お兄ちゃん一度家に戻ってよ。お父さんの49日の準備でこっちはいろいろ大変なの。葬式の時だって一人ですぐ帰っちゃうし」 「ああ」 「どうせ、暇なんでしょ」 「いや」 「私よりはるかに暇でしょ。手がまわんないの! 帰ってきて」  それだけ言われ電話は切れた。 「簡単に言うなよ」  と思ったが、簡単に逃げて何もしないのは俺の方で、妹の言うことはいつも正しい。真っ当な人間の正しい言葉は痛く、50にもなろうかというのにフラフラしている俺の胸は、深くえぐられた。
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