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あの日と同じ場所で私は
八月中旬、お盆を迎える夏の海。昼間は観光客でにぎやかだったものの、夕方には肌寒くなり、人影はまばらになっている。
今にも沈もうとしている夕日は、まるで夏の終わりをあらわしているかのようだった。
駐車場に車を停めて、ドアを開ける。外の潮風が車内へと吹き込んできた。
プロポーズをした海岸で、デートがしたい。
それがアルターの最後の願いだった。
せめてそれだけは叶えないといけない。それが我儘な私の義務だから。
そう思い降り立った浜辺には、帰ろうとしている家族の声と、打ち寄せる波の音が響いていた。
私はスマホを持ち上げる。そしてアルターに声をかけようとした。
「ここに来るのも久しぶりだね」
スマホから聞こえてきたのは、太一の声ではなかった。けれどとても聞きなれた声だった。私は呆気に取られてスマホを見た。
聞こえてきたのは、加藤久美子、つまり私の声だった。
「懐かしいね久美子。ここで僕は君に告白したよね」
「あの時の太一の顔、イチゴみたいに真っ赤で面白かった」
なんだこれは。私じゃない私と、そして太一のアルターがスマホ上で会話をしている。
「ごめんごめん、驚かせちゃったでしょ、人間の私」
「彼女は君のアルター。この端末に記録された、君の情報から作り出された仮想人格だよ」
太一のスマホには私の会話ログや、音声が記録されている。だから技術的にはできることは分かる。でも。
「……なんでこんなことを?」
「君にお別れを言うために」
さわやかな太一の声が流れた。
「僕は君と話していても、君を触れることも感じることもできない。それがもどかしかった。たぶん君もそうでしょう?」
私の口から吐息が漏れた。私が悩んでいたことを、太一もまた悩んでいた。
「だから僕は、同じ場所にいられる人を探したんだ。でも現実世界の人は超えられない壁がある」
「それで私が見つけ出されたの。今は私が太一と一緒にいるの」
もう一人の私の口調は優しかった。
「ねえ久美子」
少しだけ間を置くと、太一ははっきりと言った。
「ごめん。僕はこの人と幸せになるよ」
波が海岸を流れる。潮風が通り過ぎ、私の髪を揺らす。
私はゆっくりと口を開いた。
「もしかして私、振られた? それも機械に?」
「……まあ、そうなっちゃうね」
なんだそれ。さっきまで散々悩んでいた私が、バカみたいだ。
なんで太一の方から私を振るんだよ。
でも。
きっとこれは、彼なりの優しさだろう。
私が傷つかないように、太一とお別れできるように。
ようやく私が、太一から旅立つことができるように。
なんて不器用で、太一らしいんだろう。
「僕は君のおかげで幸せだったよ。だから、君も幸せになるべきだ」
「彼は私が幸せにする。だから私、あなたはあなたが好きな人を幸せにして」
二人の穏やかな声を聞いて、ふと空を見上げる。水鳥が一匹、雲のない空を飛んでいる。
あの水鳥はもしかしたらあの時、太一が私にプロポーズをしたときにも飛んでいたのかもしれない。
海も夕日も、頬を通る潮風も、きっとあの日と変わらない。
そして太一の優しさも。
変わったのは私の思い。
傷ついて前に踏み出せなくなった、私の心。
もう、歩いてもいいかな。
太一が亡くなったあの日から、一歩だけ踏み出してもいいかな。
太一。
「ありがとう太一」
あなたたちも幸せになって。私ができなかったぶんまで。
あの日と同じ場所で私は、そう思った。
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