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「明日のキミは、絶対何かにきっと勝てるはず。菅(すが)ちゃん、覚えてない?この言葉」
彼女が何気なく発した、意味がありそうでふわふわとしている”この言葉”が、なぜか胸の奥にじんと響いた。
着慣れないスーツに身を包み、お互いにどこか緊張した感じで、テーブルを挟んで座る。料理が来るまでの間、暫しの雑談タイムだ。久しぶりだよね!といった軽い話題から、いきなりの本丸突入であった為、大変驚いた。
大学に入ってから4回目の10月。あと半年で学生から社会人となるんだぞと、微妙に緊張感が溢れ出すこの時期に、昂然と現わるのが《内定式》であった。学生気分をぶっ飛ばして現実を見させる狙いがあるのだろうけれど、私には効果覿面だったようだ。慣れない相手と食事会やらグループディスカッションやらをやらされ、一気に体力を持って行かれた。内定式を終え、会社から出た時、ようやく元の自分に戻れたような、そんな錯覚に陥る程だった。
誰かに向けたわけではないが、それとなくため息を吐き出す。私の吐き出したため息など誰も気にしないし、気づかないだろう。就活用のバッグをぎゅっと抱きしめ、ずっしり重い体と共に、会社から徒歩5分の場所にあるバス停へと足を進めた。
2年ほど前に完成した大型ショッピングモールの影響なのだろうか、会社近くにあるシャッターまみれの寂れた商店街を歩いていた時だった。
「菅ちゃん!菅ちゃんだよね?」
私を呼ぶ声が背中に突き刺さる。体力が0に近い状態で、突然自分の名を呼ばれたのだ。肩が数センチほどぴくっと上がってしまう。振り返ると、私と同じスーツ姿の女性が、手を振りながらこちらに駆けてくるのが見えた。
小柄な体に似合わないスーツ姿の彼女を見て、どこか懐かしく感じるのは気のせいだろうか。
彼女は、私の面前に来るなり、カバンの持ち手ごと私の両手を握りしめて、
「菅ちゃん会いたかったよ!」
こう言い放ったのだ。
……そんなバカな。
私に会いたい人なんて、いるはずがない。
大学の友達は、同じゼミの子だけだし、高校は訳あって隣の更に隣の市の高校に通ったし、大学にいたっては県外だ。いるとすれば、中学校…いや小学校、まさかの幼稚園!?
だが、その答えはあっさりと判明した。
「いやぁ、何日か前に、家で《明日アイス》食べてたら、ふと菅ちゃんの姿が頭に浮かんでね!あ、そういえばそんな子いたなぁって思っていたらびっくり!まさか同じ会社だったなんて!」
明日?アイス?で私?何その思い出し方……。
しかも、同じ会社の同期の子だったとは。
困惑する私に対し、彼女が、ポケットの中からアイスの棒を取り出し、ほらねと見せてくれる。
「じゃじゃーん!明日アイス〜!」
……まさか、常に持ち歩いているのだろうか。
アイスの棒にやたらと細かい字で書かれていたのは、『キミの明日はきっとキミに会いにくる!』とかいう、深いんだか浅いんだか、よく分からない文章だった。
ただ、このよく分からない文章に私は見覚えがあった。明日アイスとは、この地方のスーパーでしか売られていないというローカルアイスのことだ。味も見た目もごく普通のアイスなのだが、明日アイスの名の通り、アイス棒に明日に関するお告げ的なことが書かれているのだった。中学生の時だっただろうか、明日アイスに書かれている事が現実に起こるだとか、明日アイスが願いを叶えてくれるとかで、大人から子供まで大流行したのを覚えている。私は、そんなもの信じなかったけど。
「”明日”は菅ちゃんで、私に会いに来てくれたんだね!やっぱり凄いなぁ、明日アイス!」
彼女は、その場にひざまづくと、アイスの棒を天高く掲げ、ありがたやありがたやと拝み始めるのだった。あぁ、裾が汚れてしまう、と思った私はきっと社会人になれるはずだ。
彼女の言葉。“明日”は私、か。はは、なぜだろう、彼女を見ていると、疲れが抜けていくというか、肩が軽くなるというか。まるで、昔の自分を見ているかのような……。
“本当の私”に会えたような……。
「じゃあ、再会を祝して、そこのファミレスに入ろう!」
私の答えを聞く前に、彼女に背中を押されるがまま、近くのファミレスに入ることになった。両隣の店も向かいの店も、シャッターは完全に下ろされており、ファミレスの窓から溢れる明かりが、寂しく照らしていた。
店員さんの挨拶を耳にした後、彼女が入り口からすぐ近くの2人席に座わったため、私も彼女に続いて向かい合わせに座った。
「さて、私はスペシャルステーキとミラクルグリルチキンと……」
彼女は、席に座るなり、メニュー表を手に取ると、ペラペラとページをめくりながら、あれが食べたいこれも食べたいと、目を輝かせるのだった。
スーツに油が……なんて、考えてしまう私は立派な大人になれたのだと信じたい。
しばらくメニュー表とにらめっこした後、彼女がテーブルの端に置かれているボタンを押す。効果音が店内に鳴り響き、すぐに店員さんがやってくる。
「デラックスピザとウルトラうどんでお願いします!」
さっき言ってたのと全然違うやつだった。しかもピザとうどん……。うどんは、汁が飛ばないか心配だ。
彼女の予想外の注文に対し、思わず叫びそうになるのをぐっと抑えつつ、私は、無難にミートドリアを注文するのだった。
一方彼女は、ドリンクバーから持ってきたオレンジジュースを勢いよく飲み干すと、
「この一杯の為に、菅ちゃんと出会ったんだ!」
そう言いながら、恥ずかしそうに両手で頬を押さえるのだった。
私と彼女の出会いは、アイスにオレンジジュースと、食べ物ばっかりであった。
「それにしても久しぶりだよね!菅ちゃんと最後に会ったのは……中学生の時だから……15年ぶりぐらい?」
いや、どこをどう計算をしたら、15年という数字が出てくるのだろうか。彼女の冗談は冗談に聞こえないから困る。
「菅ちゃん成人式来なかったって真弓ちゃんから聞いたよ!せっかく私と会えるチャンスだったのに!」
今度の彼女は、頬を膨らませている。
真弓ちゃんが誰なのかは思い出せないが、私のことを気にかけてくれる同級生がいたことは、素直に嬉しかった。
「菅ちゃん隣の更に隣の市の高校に進学したんだよね?真弓ちゃんから聞いたよ!すぐ近くの高校に来れば、一緒に通えたのに!」
今度の彼女は、頬を両手で引っ張っている。
おかしい!私が隣の更に隣の市の高校に進学したことは、家族と教師と高校の同級生しかしらないはず……。何者だ、真弓ちゃん。
私が真弓ちゃんの正体に首を傾げていると、彼女がストローから口を離して、身を乗り出しくる。
「え?忘れちゃったの真弓ちゃん?卓球部のメンバーだよ!ほら、私と菅ちゃんと真弓ちゃんと〇〇ちゃんと……」
彼女が指で数字を数えながら、次々と部員の名前を挙げていく。しかし、私は誰一人として覚えていなかった。忘れていたどころの話ではないぞ、これは。
そして、冒頭の場面へ戻るのだった。
「明日のキミは、絶対何かにきっと勝てるはず。菅ちゃん、覚えてない?この言葉」
なぜ彼女の言葉に驚いたのか?答えは、この言葉だけははっきりと覚えていたからだった。正確には、彼女の言葉を聞いた瞬間、塞いでいたものが、一気に溢れ出すかのような、記憶が呼び戻されていったのである。
なぜ、忘れていたのだろう。なぜ、忘れてしまったのだろう。
「あ、そうだ。これ、菅ちゃんに返しておくね。菅ちゃんと出会った時のために、持ってきたんだ!」
彼女はそう言うと、鞄を漁りながら、何かを取り出して、テーブルに並べていく。
……こ、これは。
今日一番の驚きだった。
彼女が鞄から取り出したものは、私が中学生の頃毎日のようにやっていたゲームソフト、読んでいた漫画の単行本、食べていたお菓子の袋、飲んでいたジュースのペットボトルだった。
そして、最後に彼女が取り出したものが……。
「最後にこれ!ジャジャーン!菅ちゃんのラケットだよ!」
赤を基調としたラケットケースだった。彼女が中を開けると、傷や汚れ、へこみによって、白を失いつつある5個のボールが、テーブルの上を転がっていった。私は、慌ててボールを回収し、両手で抱えた。
「懐かしいよね!私と菅ちゃんの青春だよね!」
黒く汚れたグリップに、細かい傷が目立ち、白っぽくなってしまったラバー。グリップを握り、指に力を入れてみる。
……あぁ、これは私のラケットだ。私の青春のラケットだ。
「どうして私がこれを持っているのか気になるよね?」
どちらかといえば、これらを内定式に持ち込んでいた事の方が気になる。
「その理由はね!菅ちゃんの青春はね!中学3年の6月で終わってるからだよ!」
彼女は、両手を大きく広げて、満面の笑みで、全てを見透かしたかのように言った。
……何を言っているんだ、この子は。
「中学3年の後半も、高校時代も、今過ごしている大学時代も、これから過ごすはずの社会人時代も!私と別れてからの菅ちゃんは、ずーっと!いくら歩き続けても、決して色づかない世界を生きてきたんだよ!」
……何を言っているのかさっぱり分からない。はずなのに、支離滅裂な彼女の発言に対して、どこか安心したような、納得してしまう自分がいた。
「でも安心して!今日からは”私”がいるから!私と一緒に、もう一度世界に輝きを取り戻そう!菅ちゃんの世界を色づかせるんだよ!」
彼女の両手が私の手をそっと包み込む。彼女の温かな体温が、私の両手に伝わってくる。彼女は……私が試合前に緊張している時、いつもこうしてくれた……ような気がする。これは、中学生の時の感触なのだろうか。
「その為に、私は明日アイスを食べて、菅ちゃんに会いにきたんだからね!」
明日アイスを食べていたら、偶然思い出したという会話は、嘘だったのだろうか。私と明日アイスを結びつけて、”青春”を思い出させるために。
しばらくすると、店員さんが料理を運んできてくれる。私と彼女は、テーブルの上に散らばった”青春”たちを急いで片付けた。飲食物の持ち込み、ゲームに漫画、卓球……。店員さんの顔を見ずとも、”青春”たちを目の当たりにして、戸惑っている様子が目に浮かぶ。
「まずは、ご飯食べちゃおう!いっただっきまーすっ!」
彼女は、口元の汚れとかスーツに汁が飛ぶとか、そんな細かいことを一切考えず、一意専心にピザを手に取り、うどんを口に入れていく。
そうだ、あの頃も彼女は、打ち上げでこんな風に……元気そうに……ババババッと……食べていた気が……する。
彼女に続いて、私もミートドリアを食べ始めることにした。
「ごちそうさまでした!美味しかったね!菅ちゃん」
汚れた口元をおしぼりで拭いつつ、そのおしぼりでスーツのシミを落とそうとする彼女。
幼さを感じさせる仕草や言動(姿もだけれど)は、まるであの頃のまま時間が止まっているかのようだった。
「代金は私が払うよ!菅ちゃんから借りたもの、ずっと返せなかったからね!そのお詫びってことで!」
えぇ!?あれ全部私が彼女に貸したものだったの!?
「忘れちゃったの?中学生3年の6月、最後の試合のあと、菅ちゃんが私に全部くれたんだよ!」
ええぇぇ!?貸したんじゃなくてあげたの!?私は!
「まぁ、どっちでもいいじゃん。私と菅ちゃんが会えた、それが全てだよ!さあ、お会計お会計!」
伝票を持ってレジに向かいお会計をする。可愛らしい熊さんのお財布から、小銭を取り出す彼女だが、表示された金額を見て目を丸くする。
彼女から、初めて笑顔が消えた瞬間だった。
「10円玉と1円玉しか入ってない……」
そんな馬鹿な……。あの自信はどこから出てきたのだろうか。
涙目の彼女に代わり、私が支払うことになった。
「ほんとごめん!菅ちゃん!このご恩は、私の”命”を持って償うから!」
店を出てすぐ、彼女が両手を合わせて謝ってきた。
いや、ファミレスの価格と釣り合ってない、重すぎるよ……。
「そうだ!すぐ近くに市民体育館があるんだよ!そこでなら、雀の涙な私のお財布もきっと役に立つと思うよ!」
彼女がなぜ市民体育館を選んだのか、私はすぐに分かった。私が、いや、私たちがよく知っている場所だったからだ。
商店街から徒歩10分ほどの位置にある市民体育館。中には、16台の卓球台が設置されている卓球室があった。程よい広さで、大人から子供まで幅広い年齢層の人が利用していた。
中学生や高校生といった学生の利用者も多く、私たちの卓球部も、部活が早く終わった日や部活が無い日は、よく集まっていた。でも、彼女の雀の涙のお財布が、”今”の市民体育館に通用するだろうか。
道中、彼女は一言も喋らなかった。どこか寂しさを感じさせる彼女の背中を追いながら、市民体育館へ歩き続けた。
「到着……だね」
中学3年の6月を最後に、一度も市民体育館には行っていない。ここに来るのは、7年ぶりぐらいだろうか。当時も薄暗く汚い建物だと思っていたが、老朽化が進んでいるのか、ますます悪化している気がした。
彼女と一緒に入り口から建物の中に入る。エントランスホールの奥にある事務室に設置された受付カウンターで、利用申込をする。
当時と何も変わっていない、沢山の人に使い古されたであろう短い鉛筆で、本名と居住地を記入する。ここで、職員さんに利用料を支払うのだか、案の定問題が。
「500円!?そ、そんな馬鹿な!だって……中学3年の6月には、1人50円だったはず……どうして!?地球温暖化のせい!?」
いや……地球温暖化は関係ないと思う。
公共施設だって7年も経てば色々あるのだろう、人口減少とか物価高とか。
青ざめた表情で膝をつく彼女の代わりに、私が料金を支払った。2時間の利用制限ありで、2人合わせて1000円は確かに痛い価格だ。
「うぅ……ごめんね菅ちゃん。この恩は来世で返すから」
ファミレスと市民体育館の支払いは、とうとう来世まで持ち越しとなった。
「あ、でも大丈夫!ほら!これ見て!」
彼女が鞄からまた何かを取り出す。出てきたのは、私の名が書かれている体育館シューズだった。そうか、卓球室の利用には体育館シューズが必要だった。
「えへへっ!これで卓球できるね!」
彼女がもう2つ、自分用の体育館シューズとラケットを取り出し、にっこりと微笑んだ。
私の体育シューズを彼女が持っているということは、私は彼女に体育館シューズをあげたのだろうか。そもそも彼女が自分のラケットと体育館シューズを持っているということは、こうなることを最初からわかっていたのだろうか。
いずれにせよ、わかったことがある。やっぱり彼女は私と卓球をやりたかったのだ。いや、違う。本当は、”私”が彼女と卓球をやりたかったのだ。あの頃のように。もう一度。一番輝いていた、色づいていたあの頃の自分に会いたかったのだ。
私はどこで自分を見失ってしまったのだろうか。現状を否定して、逃げるように隣の更に隣の市の高校に通った高校時代だろうか。自分が嫌になって県外の大学に入学した大学時代からだろうか。
やはり、彼女が言ったように、中学3年の6月だろうか。6月14日。あと一歩のところで県大会に届かなかったあの日。思えば、大会の会場はこの市民体育館だった。悔しさが溢れ続けていた。涙が止まらなかった。
「菅ちゃん!ほら、”明日アイス”だよ!」
そんな時、彼女がいつものように、両手で私の手をそっと包み込んでくれた。いつもよりひんやりしているのは、”明日アイス”をくれたからだった。学生の利用が禁止されている会場の自販機でこっそり買ってくれたのだろう。当時の私は、こんな時になぜアイスなのかと、少し困惑していた。でも、嬉しかった。彼女の満開笑顔を見て、いつの間にか私の涙も止まっていた。彼女の咲き誇る笑顔は、いつもみんなを笑顔にしていたんだ。
明日アイスの袋を開けて、アイスを取り出す。
隣で彼女も”明日アイス”を食べていたことを覚えている。
そうか、ここだ。やっと思い出した。
アイスを食べ終わった後、棒に書かれていた言葉が『明日のキミは、絶対何かにきっと勝てるはず』だったのだ。偶然にも、彼女のアイス棒にも全く同じことが書かれていた。
「これ、昨日食べたら当たったのかなぁ。絶対勝てるって!悔しいね!菅ちゃん!」
きっとだから無理なんじゃ……なんて言いながら、2人して笑ったんだ。
私は彼女の言葉を思い出す。
「明日のキミは、絶対何かにきっと勝てるはず。菅(すが)ちゃん、覚えてない?この言葉」
私は、心のどこかで絶対きっと覚えていたのだろう。彼女に全てを託して、忘れた気でいたのだろうか。自分を見失った気でいたのだろうか。だとすれば、本当に笑い話にもならない馬鹿な話である。
でも、今は違う。彼女と再び会えたし、偶然にも同じ会社に入る事になったのだ。今からでも……まだやれることはたくさんあるはず!
“キミの明日はきっとキミに会いにくる!”か。
ふふっ。中学生の頃は馬鹿にしていたけれど、明日アイスにちょっとだけ感謝しないとだね。
私と彼女は卓球台を挟んで向かい合う。
「じゃあ、やろうか!菅ちゃん!」
彼女の合図を機に、手のひらサイズのボールをひょいっと上げて、サーブを打ち込んだ。
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