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松野神社は塾から5分ほど大通りを歩いていった先にあった。
のっぺりとした顔立ちの狛犬達が、私達を静かに出迎えてくれた。
大きな木々の向こうに見える拝殿は、古く小ぢんまりとしていたけれど、手入れが行き届いていて地元の人達に親しまれているのがわかる。
ちょうどお詣りを終えたところなのだろうか、仲良く並んで歩く老夫婦とすれ違う。
「神様にお願いする前に、住所と氏名を唱えるんだって知ってる?」
参道に足を踏み入れたところで凌太が自慢げにそう言った。
「へえ。神様も名前言わないと誰だかわかんないんだね」
「毎年何十万、何百万と人が訪れる神社なんて名前言わなきゃ神様だって覚えてらんないだろ」
私だったら何十人規模だって人の願い事なんて覚えてられない。
神様はその都度メモでも取っているのだろうか。
それとも神様だから名前さえわかれば、何百万人分の願い事でも覚えていられるのかな……。
私はそこまで考えてから、『いやいやいや、あなた様のことを疑っている訳ではないですよ』なんて神様相手に頭の中で言い訳をしてみる。
お願い事は頭の中で唱えるけれど、神様にはどこまで聞こえているんだろう。
今ここでぐだぐだ考えていることも、神様に伝わっちゃっているのかな……。
慌てて頭を振ってみせる私を見て、凌太は首を傾げている。
「さあ、お詣りお詣り」
私はそう言って拝殿の前に進み出る。
二礼してから凌太のパンパンと柏手を打つ音に合わせて手を叩く。
心の中で、住所と氏名を伝えてから去年の感謝の気持ちを述べる。
願い事はギリギリまで迷ったけれど、『皆が志望校に合格できますように』にした。
何とも曖昧な願い事だ。
そもそも皆とは誰のことを指すのか……。
胸の奥で燻っている黒い思いに囚われないよう、神経を願い事に集中する。
でも、意識しないようにするのは意識しているのと同じこと。
神様はそんなのも全部お見通しなのだろうか。
それとも、住所を言わなければわからないぐらいだから、はっきりと言葉にしてみせなければ伝わらないのだろうか……。
頭の中がぐるぐる、ぐるぐる……。
一礼をしてから目を開くと、凌太がこちらを覗き込んでいた。
「絵梨、願い事し過ぎじゃね?」
「か、神様が間違えないよう、ゆっくり住所を唱えてたんだよ」
私は思わず視線を逸らす。
「欲張って願い事いっぱいすると叶えてもらえないぞ」
「じゃあ、凌太は何をお願いしたの?」
「皆が志望校に合格できますように」
「えっ……」
私と同じ答えに思わず顔がニヤけてしまう。
「でも、皆が合格しちゃったら人気大学は大変なことになるな」
「だねー」
「けど、合格祈願だけじゃそんなに時間かからないだろ。絵梨、チョコが食べたいとか、痩せますようにとか願ったんじゃん?」
運動不足の受験期、確かに私はチョコ断ちをしている。
でも、ダイエットしてるってほどじゃない。凌太は「もう少し痩せた方がいい」とか思っているのだろうか……。
私はタイトスカートから伸びる2本の足を見下ろしてみる。
自分ではそんなに太っているとは思ってなかったけど、ダイエットした方がいいのかな……。
「そんなことはお願いしてないけど……」
「じゃあ何だよ」
「えっと……。せ、世界平和……」
嘘ついちゃった……。神様の前で。
「あー!」
凌太の大きな声に私は思わず顔を上げた。
「な、何?」
「それ忘れてた。もう一回」
そう言って凌太はお財布を取り出す。
「えー、もう一回とかダメじゃん?」
「だって平和大事だろ? もう一回お賽銭投げれば大丈夫じゃね?」
なんともいいかげんな話だけれど、凌太の呑気さにギスギスしていた心が少し解れた気がした。
「私も、もう一回」
「絵梨、欲張り過ぎだろ」
凌太は一重の瞼を線のように細めてへにゃりと笑う。
大好きな笑顔。
「いーじゃん」
私も口元を綻ばせながら凌太と一緒に賽銭箱に小銭を投げ入れる。
住所、氏名を告げてから、『さっきの願い事は取り消しで、世界が平和になりますように』と願う。
取り消しなんてありなのかどうかわからなかったけれど、『皆が平和』ならば誰も困らないだろう。
凌太が合格したら私は困るのかな……。
自分でも持て余しているこの感情。神様だって対処のしようがないだろう。
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