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「茜、手つなご」
「やだ」
「え~、誰もいないし」
「いる時はしない、いない時はするって決めるとどっちつかずになるから、最初っからしないって決めた方が楽」
激しい運動をした後、緊張がほどけたからか、むくむくと食欲が主張し始めた。また同じ部屋に帰るのに、玄関を出るぎりぎりまでキスを繰り返した自分達は、ちょっぴり浮かれすぎだと思う。
慧は長い足をぶらぶらと持て余すように歩く。いじけた姿を見せつけるようにする姿が、かわいくて愛しい。
「じゃ、いる時もいない時も手つなぎたい」
「駄目」
「じゃーキス」
「もっと駄目!」
地元だというのに、警戒心がなさすぎやしないか。伸ばされた腕をはたき落とし、足早に慧を追い抜く。金木犀の香りが一瞬強く漂って、ああ、秋が来たんだと実感する。
時間は流れる。秋が終われば冬がきて、そうしてまた春が来て。
──茜。
母さん。金木犀は好きだった?
「直哉と似てるとこ見っけ」
「え?」
唐突な言葉に振り返ると、直哉は悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべている。
「きっぱりしてる。中間がない感じ」
「…ほんと?」
「え、そんな喜ぶ?」
「だって、嬉しいもん」
明日、直哉と三鷹の家で会う約束をしている。話せない部分は割愛して、でも、少しだけ慧とのことを話したい。直哉はどんな顔で聞いてくれるだろう。
国道沿いの高架下は、車の通りばかりで人気が少ない。二人きりの時間を少しでも増やそうと、慧がこの道を選んだことを分かっている。
でも、これは言わなくて良いことだ。慧は案外照れ屋で、茜のためにしたことを口に出すと、誤魔化すように揶揄いだす。付き合って数週間たって見つけた、慧の小さな欠片たち。
星の散らばる空を見上げる。漂う金木犀の香りを胸いっぱいに吸い込んでみる。
今日が終わって、明日が来て。茜は茜のままで変わらない。慧が好きな今日、慧がもっと好きな明日。
膨れ上がる気持ちは、見栄とか欲とか、背負うには厄介な感情を連れてくることもあるだろう。何が正解か考え過ぎて、足踏みをしてしまう日もきっとくる。
だけど茜は知っている。
せーの、と呟けば、少しだけ勇気が湧いてくる。
「まーいいけど。よくもないけど」
「なにそれ」
「独り言だよ」
夜風に髪をなびかせ、単純明快に笑う。そんな姿も大好きだ。
道向こうで店の明かりが揺れている。横断歩道は青。
走れば間に合う距離だけど、慧はさり気なく歩調を緩めた。
信号をもう一度だけ見送ってから渡ることを、茜は期待している。
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