【2】思い出

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 風呂から上がると、慧が机の上を片付けていた。 「ドライヤーの場所分かった?」 「あ、うん」 「直には泊るって言っといたから」 「あー、うん…」  これにはうまく返事が出来なかった。しっかりしろと自身を鼓舞する。  流しっぱなしの映画は佳境に入っていた。モノクロの世界に映る大粒の涙は、ほのかな陰影を纏っている。伝う速度に合わせ、薄墨のように頬を流れ落ちていく様が美しかった。 「なんで泣いてるんだろ」 「俺だって分かんないよ、風呂入ってたし」 「ロトが当選したと思ったら先週の数字だった」 「また買えば良いじゃん」 「インフルエンザで残りの有給使い切った」 「インフルエンザで休む時も有給使わないといけないの?」 「ちくしょー、学生に戻りて~」  空き缶を放り込んだビニール袋を手に立ちあがり、台所ですすぎ始める。茜も小皿をキッチンカウンター越しに手渡した。代わりに、慧は麦茶を差し出してくる。  よく冷えた麦茶で喉を潤しながら、せっせと働く姿を観察する。シンクの端には四つ折りの布巾が置かれていて、不意打ちで砂利を思いっきり噛んだ気分になった。あれも元カノが置いて行ったものだろうか、と考えてしまったせいだ。 「慧ってどんな時泣くの?」 「なんだ急に」 「俺には泣け泣けってうるさいじゃん」 「んー、水泳やってた時とかは結構泣いてたんじゃないかな。悔し泣きの方だけど」 「試合で?」 「試合もそうだけど、普通の練習とかもさ。タイムが伸び悩んだりとか?あとはそーだなー…直哉と喧嘩した時泣いたな」 「激しいやつ?」 「めっちゃ激しい。口喧嘩で決着つかなくて、最後はこれ」  そう言って、顔の前で掌を前後に行き来させる。 「殴り合い?」 「ばか、水泳だよ」  いたずらっぽく瞳を柔らげる。懐かしさと、ほんの少しの痛み。また、知らない慧が顔を覗かせる。  知りたい、けれど知るのが怖い。そんなことを考える自分がもっと怖い。 「あいつさ、中三の一学期の終わりにいきなり転校したんだよ」 「…うん」  知っている。九月から、茜たちと東京で暮らすためだ。 「引退試合前だぜ?部長でエースのくせに、副部長の俺にも、マネージャーの千加にも言わなかった。しかも、親が離婚するからついていきます、東京ですって。いやいや電車で一時間じゃん、通えよっていう。少なくとも試合は出ようよっていう、怒りがね、もうばーって溢れまして」  初めて会った時、十五歳の直哉はひどく大人びてみえた。  何故大人びてしまったのか考えられないほど十歳の茜は子供で、その幼さは今も尾を引いているのかもしれない。  直哉は優しかった。父も母も茜に関心がなかった代わりに、直哉だけは決して、茜を一人にしなかった。  妹がいると知ったのは中学に上がる頃だった。それも、昔の写真を見て偶然知っただけで、直接教えてもらったわけではない。  不安でたまらなかった。すでに直哉との距離が開き始めていた頃で、これ以上関係が変わることが怖くて、触れずにいることを選んだ。  茜はもう十歳の子供ではなく、母の身勝手さも理解している。優しさに甘えることが罪だとは思わないけれど、知らぬ間に兄や、その周りの人々を傷つけていた話を聞くのは辛かった。 「最後のミーティングが終わって、直哉に勝負しろって言った。五十メートル一本勝負。僅差で勝ったけど、全然嬉しくなくてさ…ああこいつは全部一人で決めたんだ、こいつにとって水泳って、俺たちって何だったんだろうって思ったら、もう涙止まんなくて。しばらくプールから上がれなかった」  スポンジをぎゅっと握る。洗剤の泡ぶく一つ一つに虹彩がかかり、ゆらゆらと漂っていく。  小さな虹の中に閉じ込められた夏の光の幻に、兄と慧が浮かんでは消える。 「本当はさ、気づいてたんだ。春くらいからあいつ、なんか変だった。しょっちゅう家行って飯食ったり泊まったりしてたのに、全然呼んでくんなくなったし。自主練の時間増やしまくったり、塾通い始めたり…家に帰りたくない理由があったんだよな。でも俺は、直哉の叩きだすタイムに焦って、自分のことしか考えられなくて…他の部員も同じ。タイムが伸びてるから、直哉はしっかりしてるからって、誰もあいつに踏み込んで訊かなかった。大丈夫か、何か困ってることあるんじゃないか、って」 「…聞いたら、直くん話してたかな」  カウンターに乗せた指先に力をこめて尋ねた。 「家の事情のこと。慧になら話した?」 「どうだろうな。あいつ、頑固だし…もし話してくれたとしても、おじさんに付いて行くって気持ちは変わらなかったと思うよ。俺はそれを受け入れられなかった。だから結局、喧嘩別れしちゃってたんだろうな」  後悔のない、すっきりとした声だった。慧は、過去も現在も受け入れている。 「いつ仲直りしたの?」 「むず痒いこと言うなあ」  苦笑しながら、フォークの水滴を払ってトレイに置く。 「二か月前くらいだよ。あいつが鶴堂に買い物に来ててばったり。その日に飲みにいって、大学同じだったんかいって話になって…で、暇なら付き合えって花野井に呼ばれた」 「気まずくなかった?」 「全然」  どこか誇らしげに慧は笑う。屈託のない笑みが眩しくて、少しだけ妬ましかった。 「…良いなあ」  小さなため息と共に呟く。口に出せば感情の粘度も薄まるかと試してみたけれど、効果はなかった。 「なにが?」 「直くんと慧。親友って感じする」 「どっちかっつーと腐れ縁じゃね?」  俺達だって友達じゃん、とは言ってくれなかった。がっかりしたような、ほっとしたような、やはり慧へ向かう感情はよく分からない。 「茜こそどうなの?」 「え?」 「言ってたじゃん、直哉とあんま仲良くないって。でも、俺はそう思えないんだよね。さっきも家帰らせろってうるさかったし」 「ああ…」  思わず吹き出すと、慧がやや不機嫌そうに「なに」と言った。 「直くん、ご飯作れないから」 「オカンかよ」  茜が食事を用意していると思って直帰したのだろう。悪いことをしてしまった。 「親代わりだったのは直くんの方だよ。運動会も来てたし」 「え、まさか親子競争とか?」 「うん。直くん、走るの早いし、ちょっとませた女子とかはきゃあきゃあ騒いでた」 「マジかよ、絶対見たいんだけど。動画ないの?」 「ないない。でも、一位だったよ。転校してすぐの運動会で、俺、まだクラスに馴染めてなかったんだ。田舎と違ってクラスの人数も多いし…。でも、ゴールした後にクラスメイトがわーってきてくれて、嬉しかったな」  今思えば、友達作りのきっかけになるよう、直哉が一肌脱いでくれたのかもしれない。 「なら、どうして今は直に遠慮してるんだよ」  懐かしさに綻んでいた口元をきゅっと噛み締める。 「あいつ、茜のことめちゃくちゃ大事にしてるよ」 「…昔はそうだったけど」 「今もだよ」  珍しく言葉を遮り、慧は布巾の角を持ってパンと宙で叩いた。 「遠慮っていうか…怖いんだよね」  雑に折り畳む手つきを止め、慧は茜を見つめる。 「気が付かないうちに、直くんを傷付けたらどうしようって思っちゃうから」 「茜に限ってそれはない」  きっぱり言い切って、カウンターに置かれた丸缶を指で示す。 「それとって。仕舞い忘れてた」 「なにこれ」 「岩塩だよ。使い時があんまないからなかなか減らなくて」  ふと、茜は指先を見つめた。 「…塩」 「なに」 「この前、慧がフライドポテトくれたでしょ。あの後、爪の間がなんだかチクチクして顕微鏡で観察したら、塩の結晶が一粒、爪と肉の間に入ってて、あ、こういうのでもちゃんと痛いんだって感心したんだよね。俺と直くんも、そんな感じかも」  そこにあるけれど、肉眼では捉えられない、確かな痛みを放つもの。 「塩が茜の母さん?」 「…かもね」 「おじさんもおじさんだな」  受け取った缶を放る様に置いてため息を零す。 「他に女作って子供に気ぃ使わせながら生活するとか、ないわ」 「でも、生活の面倒見てくれてるわけだし」 「選んだ女に子供がいるって分かってて再婚したんだから当然だろ。直哉だってそう言うに決まってる」 「…そうかな」 「聞いてみれば良いんだよ」  困ったように微笑む茜を見て、ばつが悪そうに頭をかく。 「ごめん。偉そうに色々と」 「俺がはっきりしないから」 「いや、相手の気持ち聞くなんて、誰でも慎重になるもんだから」 「慧もそんなこと思うの?」  ふざけ半分に否定されると予想したのに、真剣な表情で言い返された。 「思うよ、当たり前だろ。相手が大切であればあるほど、何が本当か考えるのも知るのも怖いよ。その逆で、自分をさらけ出すのも」  飄々と、いつも自然体な姿で笑っている姿ばかり見ているから意外だった。 「そんなこと思うんだ~って顔してるー」 「だって…」 「もう後悔したくないから、せーので足を踏み出してるだけだよ」  背中を向け、冷凍庫の扉を開ける。 「繰り返していけばいつか怖くなくなるかなって…そんなこともないんだけどね」  振り返った時にはいつもの笑顔を浮かべていたから、室内灯に照らされていた表情が茜には分からない。  でも、もしかしたら、自信のなさが瞳を僅かに揺らしていたかもしれない。 「相手の気持ちを推し量るのは茜の優しさだって分かってるし、良いところだよね。でも、ネガティブな方に考えたり、全部自分のせいだって思って距離を取られるのは寂しいよ。俺は茜に思ってることきちんと伝えるから、茜も言える範囲で言って欲しい」  そう言いながら、慧はカップアイスを差し出してきた。添えられたスプーン毎受け取ろうとすると、手首を掴まれる。  驚いて顔を上げると、焦げ茶色の瞳とかち合う。 「──茜はどうして泣かないの?」
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