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水道の蛇口から零れた水滴が澄んだ音色を響かせた。
視線はそらさなかった。カップの冷たさ、慧の指の熱さ。足して二で割れば、自分と同じ体温になるだろうか。
「…母さんを」
珊瑚色のワンピースがはためく。
「かわいそうって、思いたくないから」
慧の瞳が揺れる。疑問と、わずかな困惑。
自分の気持ちをさらけ出すことは怖い。今ある心は、茜のこれまで生きてきた時間全てで形作られているから。
伝えきれるだろうか。拙い物語に、慧は耳を貸してくれるだろうか。
考えるまでもなかった。慧は聞いてくれる。例え伝わらなかったとしても、もう一度話して、と言ってくれる。きっと、何度だって。
「入学式が終わって少したった頃に、お線香を上げにきた人がいたんだ。専門学校の同級生って言ってた」
喪服の肩に桜が乗っていた。都内の桜は粗方散っていたから、わざわざ遠方から訪れてくれたのだと思う。地名を言っていた気もするが、もう忘れてしまった。
二人は学生時代の細やかな思い出話をいくつかして、時折目尻をハンカチで抑えていた。彼女達の口から語られる母は、屈託のない少女そのもので、茜にはまるで知らない人のように思えた。
純白のハンカチの四隅は、ファンデーションと涙で徐々に色を変えていく。対面に座りながら、涙を一滴も零せないことに後ろめたさを覚えていた。
母が死んだという実感がどうしても湧かなかったのだ。
損傷が激しいからと遺体とは対面できなかった。辻との関係が明らかになり、家はまだ嵐の渦中にある。悲しみ以外の感情が大きく、日によって激しい怒りに駆られもした。一方で、母は旅に出ているだけで、ひょっこり帰ってくるような気もしていた。
そんなはずないと、誰よりも理解していなければならないのに。
お父さんは泣いたのかな。
直、すまない。葬儀の後、父がぽつりと呟いた。兄は一瞬呆けた顔をした後、茜に視線を走らせた。そして、何も言わなかった。
じき母の物はすべてなくなるだろう。すでに遺品整理の業者と連絡を取り合っているようだった。問題は花野井の家だ。田舎だし、古い建物だからなかなか買い手はつかないはずだ。父の心情を慮ってか、不動産の処分は直哉が請け負った。
ふと、肩に手が置かれる。顔を上げると、四つのうるんだ瞳が茜を見ていた。
──かわいそうにね。
──こんな亡くなり方するなんてね。
冬に逆戻りしたような薄寒い日だった。それなのに、指先がちりちりと焼けこげるように熱かったことを覚えている。
鼻をすする音、マスカラが塗られた睫毛が震える様がスローモーションのように見えた。一個一個が妙に鮮明で、頭の奥がどんどん冷えていく。
泣くなら今だ、と分かっていた。
父も兄もいない。この部屋は悲しみに満ちていて、心の琴線も確かに震えていた。けれどそれが悲しみなのか、惨めさがもたらしているのか分からなかった。
母が死んで、いなくなって。人は死ぬのだと突きつけられて、自分はこの先どうなるのだろうと不安で、怖くて、たまらなくて。
父や兄に申し訳なくて。
「母さんのこと、かわいそう、気の毒だって言いながら泣いてた。まだ若いのに、俺みたいな子供残して気がかりだろうって…それ聞いた時、俺」
慧の指が、手首の内側の脈に触れる。とくり、とくりという血の動きが伝わる。
そのまま吐き出してしまえ、と言われている気がした。
「違くない?って思っちゃった。この前花野井で見つけた神札、あれさ、辻さんの実家のやつなんだ。不倫の相手だってきっと、辻さんが初めてじゃない。再婚してから家売らなかったのも、あそこで好き勝手したかったからで、思惑通り母さんはずっとやりたい放題だったわけじゃん。江間さんのおばあちゃんが俺のことぶん殴ったのも、絶対、母さんが何かしたからだ。あの人、俺のこと母さんと間違えてた。父さんと再婚した後か前かは分かんないけど、母さんって、そういう人なんだ。人の物だって気にしない、自分が幸せになれればそれで良い。…本当に勝手で、我儘で」
いつ死ぬか人は選べない。定められた寿命が何歳か誰も分からない。死は平等で、死んだことがかわいそうなわけじゃなくて。
穏やかな死を迎えられなかったから、かわいそうなのだろうか。母の生前の行いも全て、かわいそう、の一言で収まるのだろうか。
あの時茜は、盆の上に乗った桜の寒天を見ながら、母さんは桜味のお菓子が嫌いだったな、と上の空で思った。
もう、彼女達の涙に共鳴出来ない自分を薄情だとは思えなかった。
悲しみは心の隅っこでくしゃくしゃになって転がっている。でも、感情は一つじゃない。
怒り、呆れ、くやしさも、後悔も。どれを選べばいいのか、自分が母の死に対して真実どう思っているのか分からなくなってしまった。
どれも涙に結び付く激情には育たず、ただ諦めを伴って日々は過ぎていく。
「いろんな人を傷つけた事をまるきり無視してかわいそうだなんて思えない。死んだからって、母さんが勝手したことが帳消しにはならない。やったことはやったこととして、残るじゃん。なくならないじゃん」
慧は黙っていた。笑みのない横顔に不安になるけれど、手はしっかりと繋がれたままだ。
「大事なのは、どう死んだかじゃなくて、どう生きたかだって俺は思う。母さんの生き方は、かわいそうって泣かれるようなもんじゃない。だから俺は、泣かない。泣きたくなんかない」
「…うん」
するりと手首から熱がほどける。慧はソーダバーを片手にキッチンから出てくると、再び茜の手を繋いだ。そのまま、二人でソファに腰を下ろす。
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