【2】思い出

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 アイスはすっかり溶けていて、持つとカップがぐにゃりと歪んだ。右手は慧と繋いだままだから、蓋を開けることも出来ずにローテーブルに置く。気付いた慧が蓋を開けてスプーンを差し込んだ。そしてまた手を繋ぎ、しゃくしゃくとソーダーバーを食べ始める。  口の中が乾いていることを自覚して、左手で不器用にアイスを舌先に乗せる。氷菓というには形が違いすぎるけれど、ちゃんと美味しかった。  半分ほど食べ切って、慧が言う。 「中学の時父親が急に死んじゃってさ」 「…事故?」 「や、心筋梗塞。でさ、皆言うわけよ、まだ若いのに気の毒にとか、家継いでこれからって時に、とかさ」 「うん」 「俺もその時思ったんだ。なんか違くね?って」  アイスをゆらゆらと揺らし、苦笑いを浮かべる。 「でも、誰にも言えなかった。場違いな考えなんだろうなって思ってたから」  そんなことないよ、と言おうとした瞬間、慧が繋いだ手を軽く引っ張った。直哉とよく似た丸い肩に頭が乗っかる。  右手から伝わる熱が僅かに増していることに気が付いて、ほんの少しだけ体重を預けた。そんな些細な動き一つに、信じがたい程の勇気が必要だった。 「…聞いてるよ」  黙りこくる慧に、そっと声をかける。 「聞いてるから、話して」  茜にだけ聞かせたいと思った胸の内を。 「俺は、場違いだなんて思わないから」  中学生の慧に思いを馳せる。白と黒に埋まる家、遺体の枕元で泣く母親の傍で、ぎゅっと拳を握る慧の姿が容易く脳裏に浮かんだ。  今すぐ駆け寄って抱きしめたい、俺も同じだよと声をかけたい。やるせなさと愛しさは衝動に近かった。  慧の肩が呼吸に合わせて上下する。そして、話し出した。 「父ちゃんかわいそうか?ってずっと頭にはてなが浮かんでんの。坊さんの御経聞いてる時も、焼香してる間もずーっと。田舎のボンボンに生まれて、何不自由なく育って、一目惚れした相手と結婚して、四十過ぎても正月から遊びに行ける友達もいてさ。なのに、皆そんなこと忘れちゃったみたいにめそめそ泣くわけ。いや分かるよ、亡くなったのは悲しい、俺だって泣いた。でも、母ちゃんがせめて看取ってあげたかった、申し訳ないって大声で泣き始めた時、さすがにおいおいって思っちゃって」 「入院してたの?」 「会社なんだ。一人で休日出勤しててさ、間が悪かったんだよな。でも、人を看取るイコール、息を引き取る瞬間傍にいることか?っつー話じゃん」  一気に言い切ると、水色の露が浮かんだアイスに歯を立て、勢いよく棒から抜き取る。 「二人には十何年っていう時間があったのに、心臓が止まる瞬間傍にいれなかったってだけで、色んな思い出が全部申し訳ないって言葉にひっくり返るの、めちゃくちゃ嫌だった」  視界の片隅でアイスはどんどん溶けていく。手をほどけば食べられるけれど、今は慧の手を離してはいけない気がした。ありのままの心を口に出す勇気はないから、せめてこのまま傍にいたかった。 「学校行っても空気重くてさ。大変だなー、みたいな目で見られんのよ。悪気ないのも心配してくれんのも理解はしてるけど、居心地悪いのなんのって」  何かを待つように言葉が止まる。顔を上げると、至近距離で目が合った。  思わず目をそらしそうになったがぐっとこらえる。なに勘違いしてるの、と笑われでもしたら居た堪れないから。  慧がそんなこと言うわけないと分かっているのに。 「俺が中一の時、茜は小二かー」 「うん」 「…小二の茜にこの話してもちんぷんかんぷんだよなあ」  ぽつりと漏れ出た声が妙にしみじみしていて、小さく笑ってしまった。 「そりゃそうでしょ」 「うん。なら、会えたのが今で良かったのかも。もう少し早く会えてたらなって思いもしたけど」  どういう意味、と尋ねる前に目を伏せられてしまった。表情が消えた慧は、また知らない人にみえる。 「家族を亡くす、っていう同じ経験したのに、同じ気持ちになれなくて寂しかったな」 安らかな明かりが灯ったような声だった。寂しい、を、優しい、に言い換えても気付かないほど。 「家で父ちゃんの話が出ても、早く終わらせてーって思っちゃってさ。兄貴とか弟が、あの時なに考えてたのか今更聞きずらいし…だからこうやって茜に話してるのが変な感じ」  苦笑いで肩をくすぐる。 「友達でもさ、親が死んでるって言うと、微妙な空気漂うじゃん」  頷こうとして、誰にも母が亡くなったことを打ち明けていない自分にその資格はないと思い直した。  代わりに、繋いだ指先に力を込める。 「葬式のあと学校行った時と同じ顔されんのが何年も続いてる。なんだこれと思って、調べた事があるんだ」 「調べたって、何を?」 「死の話題はどうしてその場の雰囲気を重たくするのか」 「答え、書いてあった?」 「諸説あったけどね。人間の脳って、死はすぐそこにある、って認識することを避けるように作られているんだって」 「どういう意味?」 「あれと一緒」  紙袋を指さす。 「仏事、ハレの日。どっちも日常の中にあるのに、俺達はハレの日は口にするけど仏事は口にしない。姪っ子の七五三の話と、父親の四十九日の話を同じようには出来ないだろ」 「なんでかな」 「死が怖いから」  夜の木立に似た穏やかさで慧は言う。 「生きている人間は死んだことがない。だから死が分からない、分からないことは怖い。恐怖を感じながら生きていくのはストレスだ。ストレスを抱えていくのは心に負担がかかるから、考えるなって脳が命令を出す」 「うーん」  分かるような、分からないような。  例えば、初めて物理や古典という教科を学ぶ時、茜は億劫だった。未知の分野だったし、効率の良い点数の稼ぎ方が分からなかったから。けど、慧の話とは違う気がする。 「明日は本当に来るのか」 「来るでしょ」 「生きていればね」 「…ああ」  そうか。  死んだら明日は来ないのか。 「明日は来るって信じてるから、未来の話をするでしょ。それも死を考えていないってことになる」 「確かに。自分が明日死ぬかもって思ってたら、葬式の話とかしちゃうかも」 「茜、自分の葬式どうしたいとかプランある?」 「ない。っていうか、してほしくない」  ただそうする決まりだから、という理由で、退屈な時間を過ごしてほしくない。 「棺に入れて欲しいものは時々考えるけど」 「あー、分かる。父ちゃんビートルズ好きだったんだけど、CDはだめって言われて、歌詞カードだけ入れたんだよな。俺は一応葬式挙げてもらおっかなと思ってて、流してほしい曲を常に更新してるんだけど」 「何にするの?」 「気分で変わるけど、ピンクフロイドは絶対外せない」 「ピンク…?」 「えー…まあ良いか、ってか変だな、なんで茜と葬式の話をしてるんだ俺は」 「慧がふってきた話じゃん」 「普通に答える茜も茜だろ」  そうして、二人で笑い合った。手を繋いで、葬式の話をしている男が二人。何もかもちぐはぐで実りなく、愛しかった。 「慧。寂しかった?」  訊きたい、と思った事を躊躇わず口にしてみた。  慧は「うん」と幼い仕草で頷く。 「寂しかったよ」 「今も?」 「今は平気」  両肩に慧の手が置かれる。濃くなるオレンジとミントの香りに、思わず目を瞑る。  触れて欲しい場所は触れられなかった。代わりに、耳元にささやきが落ちる。 「…抱きしめても良い?」  良いよ、と答えるのは照れ臭かったから、黙って両腕を伸ばした。丸い肩。直哉と同じ、でも、違う人。  過去に戻ることはできない。慧の時間、茜の時間、それぞれの痛みは今も互いの中で鈍く漂っている。  慧の首筋はひんやりと冷たく、腕は温かい。肩甲骨の形を確かめるように指先が動いた時、甘い疼きを覚えた。  分からないこと。怖いこと。──今、目の前にあるもの。  ずっと、慧の気持ちが分からなかった。だから傍にいると不安になった。  分からない事は怖い。願いが叶わないかもしれないと思うと不安になる。  直哉にも、慧にも、もしかしたら母さんにも。願っても努力しても叶わず、考えることもやめたことがあるのだろうか。  例えば、茜が母からの愛情を諦めたように。  心地よい温もりに瞼が落ちていく。慧が名前を呼んでくれたから返事をしたかったけれど、人肌と同じ水の中に引き込まれるように、微睡みの中に落ちていく。  意識を手放す瞬間まで心を満たしていたのは、たった一つの思いだった。  慧のことが、好き。
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