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【3】告白
日の光に瞼をじりじりと焼かれて目が覚めた。
見慣れない高い天井。腕に触れる生地の凹凸。
霞む視界の中、ローテーブルに置かれたメモと鍵に気が付いて手を伸ばす。
『仕事が終わるまで家で待ってて。なるべく早く帰るから』
「…一方的だなー」
夏休み中の大学生は暇だと思われてるのか、自分を優先して欲しいという細やかな我儘か。後者だったら嬉しいけれど、確信には至らない。
流麗な文字は予想外だが、ラインではなく文字を書き残すのが慧らしいと思った。
そうだ、携帯。直哉からのメッセージを読んでいなかった。
昨晩の三通は、『今どこにいる?』『慧のところか?』『連絡しろ』。最後の一件は今朝届いていた。
『酔って花野井の鍵、なくすなよ。不動産屋に返却するから』
冷蔵庫からアイスコーヒーを拝借し、グラスに注いで飲み干す。調味料の瓶を眺め、四つ折りの布巾をえいと指ではじいてみた。端がぺろりと捲れただけで、何も変わりはしない。
身支度を終えて家を出た。鍵を郵便受けから中に落とすと、大事な物を手放した寂しさが去来する。
でも、大丈夫と自分に言い聞かせて顔を上げた。
蝉の声が響いている。今日もきっと、暑くなる。
アクセスの悪さに閉口しながら電車を乗り継ぎ、花野井駅に着く頃には午後一時を回っていた。東京より数度気温は低いはずだが、ものすごく暑い、がすごく暑いに変わったくらいで、気休めにもならない。
日陰を選びながら、駅からの大通りを歩く。
スーパー。クリーニング屋。ドラッグストア…昔は個人経営の小さな商店が数軒立ち並んでいた道も、真新しくて、よそよそしい風景に変わっている。
母はこの町が好きだったのだろうか。それとも、父が残した家に嫌々住んでいたのだろうか。
特段親しい人も作らず、畑に作物を植えることもせず、覚えているのはつまらなそうに窓の外を眺めていた横顔ばかりだ。
夕飯の買い物は徒歩が多かった。方々の畑の端には猫がいて、母は見かけるたびしゃがみこんで背中を撫でていた。
そして、「猫触っちゃったから」と言って、茜と手をつなぐことを避けていた。
茜の中から、母の記憶は刃毀れするように抜け落ちていく。例えば、校庭の木のそばにあった鉄棒とか、倉庫に置かれていて女子が競うように遊んでいた一輪車の色は思い出せるのに、うちにサンタは来ないのだと説いた表情は忘れてしまった。
「…あつ…」
伝う汗が首筋を滑り、肩甲骨の間を流れていく。頭頂部の焼け焦げるような熱を掌で抑えて顔を顰めると、ドラッグストアの看板が目に入った。
自動ドアをくぐると、体表の汗が一気に引いてくしゃみが出る。
「あの」
後ろから声をかけられたのは、ヨーグルトを眺めている時だった。振り返ると、畑からそのまま出てきたような姿の女性が立っていた。
「…牧さんの、息子さんよね?」
返事が遅れたのは、その苗字で呼ばれるのが久しぶりだったからだ。同時に、彼女が江間の娘だと思い出した。
「はい。茜です。先日は…」
どうも、というのも違う気がする。茜は謝罪を受けた側なのだ。
聡子も同じ考えだったようで、その先を遮るように口を開いた。
「腕の具合はどう?」
「あ、全然大丈夫です」
Tシャツからのぞく二の腕を掲げてみせたが、蛍光灯の下ではかえってはっきりと痣が見えてしまった。中途半端な苦笑を残したまま腕を下げると、聡子も気まずげに言葉を続けた。
「車、駐車場で見かけなかったけど。歩いてきたの?」
「はい。今日一人なんで」
「家の片付けは済んだって聞いてたけど、何か用事?」
「忘れ物しちゃったので取りに来ました」
「そう。暑いのに大変ね。それじゃあ」
「聡子さんって、ずっと花野井に住んでるんですか」
勇気を振り絞って引き留めた。聡子は牛乳に手を伸ばしかけたまま、怪訝な表情を浮かべる。
「どうして?」
「えっと」
問い返されると予想しておらず、口ごもってしまった。
「俺、十歳までしか住んでなかったから…この辺も随分変わったなって」
「ああ…」
牛乳を籠に入れながら頷く。
「茜くん、今何歳?」
「二十歳です」
「そっか。あたし、長くここを離れていてね。出入りするようになったのも最近なの。お母さんの話も聞いたことはあるけど、面識がなくて」
今までの茜なら、これ以上踏み込まなかっただろう。母の話なんて、碌な物じゃないと分かっているから。
「どんな話でしたか」
聡子はふと目を見開いた。自分の失言に気付いたように捉えてしまうのは考え過ぎだろうか。
顎から汗が一筋流れていく。
「…ちょっとすぐには思い出せないわ。ごめんなさいね」
麦わら帽子のつばの影の中、白目がぼんやりと光っている。
耳に入れられない話なのだろう。伝えないと決めた聡子の優しさを受け入れるしかなく、いえと曖昧に微笑み返す。
帰路は聡子が車で送ってくれた。散らかっていてごめんなさい、という言葉通り、後部座席にはロープや農作業の機器がつまれている。
「これ、飲んで」
砂利道の駐車場に着くと、聡子がスポーツ飲料を取り出した。
「え、良いです、悪いです」
「いいから。クーラーもちゃんとつけるのよ」
胸に押し当てるように渡され、頭を下げて受け取る。
暑さのせいか、聡子こそひどく疲れて見えた。こんな炎天下の中畑に出なきゃならないなんて、農家の人は大変だ。時間をとらせたことを申し訳なく感じた。
聡子と母は年齢も近い。面識があるはずと踏んで聞いてみたが、当てが外れてしまった。母がどういった経緯で花野井に来たのか、当面知る機会はなさそうだ。
リビングに入ると、クーラーを入れてスポーツドリンクを煽った。一気に半分ほど飲み干すと、台所に続く柱に何度かジャンプして雑誌を床に落とす。思いのほか大きな音に慌てたが、どこも破損していなかった。
安堵の息を零した瞬間、携帯電話が鳴る。画面を見なくても分かった──慧だ。
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