【3】告白

2/5
前へ
/22ページ
次へ
「もしもし?」 『茜?』  返事が数秒遅れた。 「…あ、うん」  直哉だった。  思い込みが外れた恥ずかしさに喉奥がギュッと狭まる。 『洗濯物、干したままだった気がする』  人の声が随分と聞こえる。今日も商談会に出ているようだ。 「ごめん。俺も今外なんだ」  『まだ慧のところか?』  嘘をつくことも出来た。夜には慧のところへ戻るつもりだったし、茜がどこにいても、直哉には分からない。今いる場所を伝えれば直哉に嫌な思いをさせるだろう。  けれど。 「花野井に来てる」  思い切って口にした。  慧だったら言うはずだ。一歩踏み出して、太陽の光を取り込んだ明るい笑みで。  茜にあの屈託のなさを真似ることは出来ないけれど、今までと同じ道を歩いたら、昨日過ごした時間が跡形もなく消えてしまう気がした。  話さなきゃ。思っていることを、伝えなきゃ。  続く沈黙に後ろの道が崖となって崩れ落ちていくような怖さを覚えるけれど、ぐっと堪えて口を動かした。 『慧が連れて行ったのか?』 「ううん、一人」 『…何の用で』 「この前、慧が雑誌くれたんだ。置いて帰っちゃったから、取りにきた」 『雑誌?』 「海外のファッション雑誌。母さんが好きそうだからって、持ってきてくれて」  一歩、また一歩。言葉を続ける度、直哉との距離が離れていくようで不安になる。  でも、口にしなければ分からない。茜も直哉も別の人間だから。同じ経験をしても、同じ気持ちにはなれないから。  怖いし、難しいけど、伝えたい。 「母さんの物を持ってるのは気が重くて無理って思ってたけど…これは手元に残しておきたくて」  珊瑚色のワンピースも、靴も鞄も、全てなくなった。茜が手放すと決めた。   けれど、慧がくれた雑誌だけは違う。  母のために心を手向けてくれる人がいることを嬉しいと思えた。あの時の感情を、忘れないでいたい。 『あいつらしいな』  直哉の声に焦りのようなものが滲んだ。  きっと忙しいのだ。切り出すタイミングを間違えた。また後で話そうと通話を終えようとした時、直哉が会話を被せて来た。 『電車で行ったのか?時間かかっただろ』 「あ、うん。でも…」  結局、まとまらない頭で話を続けた。 「乗ったらすぐ寝ちゃったから、体感的にはそんなに。夢に直くん出て来たよ。運動会に来てくれた時のやつ」 『……。小学校の?』 「そう。慧に昨日話したからかな。直くん、閉会式まで残ってくれてたよね」  慧に伏せていた話がひとつ。  直哉とのレースが映像で残っていないのは、撮影する人がいなかったからだ。両親は新婚旅行に出かけていた。  でも、茜は寂しくなかった。ずっと直哉が応援してくれていたから。 「ありがとうって言おうとしたら、知らないプールに場面が変わって、慧と鯨が泳いでた」 『あいつと随分仲良くなったんだな』  直哉は場所を変えたようで、周囲の喧騒はすっかり消えていた。 「…うん」  内心の動揺を隠しながら頷く。  だめだ。またいつもと同じ。よそよそしく会話が途切れてしまう。 『慧から何か聞いたか?』 「…転校した時のこと、少し」 『あいつには色々迷惑かけたと思ってるよ』 「直くんのせいじゃない」   咄嗟に言い返してしまった。  そう、直哉のせいじゃない。今も、あの、冬の夜だってきっと。 ──外、雪降ってるよ。  ベッドの中でうずくまりながら、ずっと直哉の事を考えていた。  どうして帰ってこないのだろう。友人の家にでも行ったのだろうか。それとも彼女?  どこでもいい、ただ暖かい場所にいて欲しいと祈った。  本当は探しに行きたい。雪道を駆けて、ごめんね、母さんが何かしたんだよねと謝りたい。  直哉が否定しても肯定しても、茜がすることはただ一つだ。冷たい手をぎゅっと握って、帰ろうと言う。  だって、俺達は家族なんだから。  でも、直哉がそんなことを望んでいないと分かっていた。  玄関扉の向こうに消える背中から、はっきりとした拒絶を感じた。  やり直すなら、あの夜からだ。避けては通れない分岐点。  雪の中遠ざかる背中に向かって、せーの、と胸の内で奮い立たせる。 「直くん。五年前の冬のこと、覚えてる?」  はじめは、一片の雪だった。  微かな綿毛たちが、時間をかけて全てを塗り替える。一つ問えなければ二つ、また三つと積み重なり、変わりゆく景色を窓ガラス越しに眺めていた。  まだ間に合うだろうか。  手を伸ばせば、届くだろうか。 『ああ。覚えてるよ』  どの日といわずとも伝わった。兄が今もあの雪の夜にいる証だった。  直哉は冬が似合う。凍てつく景色の中、凛と立っている姿は白鷺のようで美しい。  けれど本当は、夏の日差しの中、仲間たちと泳ぎ合っていた人なのだ。  慧に出会わなければ知らなかった。知ってしまったから、茜は願ってしまった。 「聞いてもいいかな」 『何を』 「あの日」  鯨になりたい。  美しい歌なんてなくて良い。兄を背中に乗せて、潮騒の響く暖かな南の島へと届けたい。 「母さんと直くんの間で何があったのか、教えて」  
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

62人が本棚に入れています
本棚に追加