【3】告白

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 長い沈黙だった。電話機の向こうで、茜に話せるラインを探っていることが気配で伝わった。  そのまま伝えてよ、と言えればどんなに良いだろう。こんな時でも足踏みをする自分が嫌になる。けれど、口にしたところで、直哉は自分なりの言葉で伝えようとするだろう。  小さなため息のあと、直哉がようやく声を発した。 『お前とのことを言われた』 「俺?」 『仲が良すぎるけど、何か特別な感情でもあるのかって』  ざっと血の気が引いた。母の、誰かを傷つける前に浮かべる慈愛に満ちた眼差しがくっきりと床に描かれる。  けれど、直哉の語尾が笑いをこらえるように揺れた瞬間我に返った。 「馬鹿!」  咄嗟に叫んだ。干上がった喉からはじき出された声は僅かに掠れていたが、直哉には気付かれなかったようだ。 「馬鹿、馬鹿!最低!」  直哉に恋愛感情を抱いたことは一切ない。違う出会い方をしていたら分からないが、兄であり、親代わりでもある人に、邪な感情など持てるはずもなかった。  だが、慧の事がある分心臓に悪い。後ろ暗さはどうしても拭えないものだ。  不安が駆け足で胸の中に飛び込み、ぐらぐらと心を揺らした。たまらなく慧に会いたかった。 『こら、そんな叫ぶな。踊り場にいるんだ、階段中に響くだろ』 「直くんのせいじゃん!信じらんない、今絶対、そんなこと言うタイミングじゃなかったじゃん!」 『おい、まさか泣いてないよな』 「泣いてない!」  焦りまじりの言葉尻に被せて、大声で言い返す。  泣いてなんかいない。ただ、空気と共に、少しだけ涙腺も緩んだだけだ。  苛立ちの中に喜びも隠せなかった。直哉と軽口をたたくのはいつぶりだろう?思ったままの言葉を伝えられたのは? 『本当に聞きたいのか?』  打って変わって、真剣な声で尋ねてくる。 『良い話じゃない。…分かってるだろ』 「それでも聞きたい」  きっぱり言い切るが、直哉はまだ迷っているようだった。「直くん」と慎重に名前を呼ぶ。 「俺、もう二十歳になったよ。あの時の直くんより二歳も上なんだ。十八の直くんが聞いた言葉なら、二十歳の俺が聞かない理由なんてないよ」  むしろ遅かった。もっと前に尋ねるべきだった。狡さを責めない直哉の優しさに甘えるのはもう終わりだ。  小さく長い息は汽笛にも似ている。直哉の、せえの、という掛け声。 『…親父が』 「うん」 『浮気してるって、教えられたんだ』  どんな話であっても、「嘘だ」とか、「まさか」という返事はしないと決めていた。兄が一人で抱え続けた真実に対し、あまりに軽い言葉だから。  けれど、いざその瞬間に立ち会うと、他の言葉を探すのはひどく困難に思えた。 『深雪さんと同じで、親父もよその女に手を出してたんだよ。…その話を聞かされた』 「…そう」  その一言を絞り出すのがやっとだった。  父が浮気?記念日に花を欠かさなかった人が?常に母の思いを優先していた人が?  茜すら混乱が大きいのに、実子である直哉なら尚更だろう。だが、数年を経てすでに消化済の話題なのか、直哉の説明は淡々としていた。 『元は俺が問い詰めてたんだ。予備校の帰りに、辻と一緒にいるところを見かけて…分かるだろ、そういう雰囲気って。だから、浮気してんじゃねえのかって聞いたら、あっさり認めやがった』  辻の家が直哉の予備校の近くだったことを思い出す。時折、直哉の送迎を請け負ってくれることもあって、車には実家の神社のお守りが揺れていたっけ。 『言い訳もしなかった。好きにしろ、代わりにもうこの家には帰って来るなって言ったら…じゃあ、お父さんも帰ってこれないわねって笑ってた』  やすやすと思い出すことが出来る、母の少女めいた微笑み。  茜はその時、どこにいたのだろう。  最寄り駅からのんびり家路を歩いていたのだろうか。コンビニで買った肉まんを齧りでもしながら。 『父さんに限ってそんなわけないって頭の中で必死に言い訳してた。今考えると笑えるよな、そもそも前科持ちだったわけだし。そしたら写真まで見せて来やがった。マジで抜かりねえよ』  恐らく辻が協力したのだろう。土日を挟んでの出張があると言っていたが、本当かどうか、秘書である辻に確認すればすぐに分かる。  『私は駄目で、お父さんは良いの?って聞くんだ。良いわけねえだろって思う。でも、ならどうすりゃいいんだ?親父に浮気してるだろって言って、あっちもしてるぜって話して。離婚するってなったら──』  スイッチが切り替わる様に、淡々とした声色に苦悶が満ちる。 『お前はどうなる?高校だって大学だって、なんにしたって金がいるんだ。あの女がまた別の男ひっかけて、そいつがお前に暴力でも振るったら?学費なんてびた一文出さないから働けって言ったら?父さんが他に女を作るのをやめないのは明らかで、俺が母さんや妹とまた暮らすにしてもありのまま話せるはずもない。なら、俺が黙ってるのが最善だ。二人は素知らぬふりしてよそで男やら女やら作って、俺達は父さんの稼いだ金で呑気に暮らすのが一番マシじゃねえか』   ──茜。 ──好きになっちゃだめよ。  母らしい、と思った。  あの日、兄が自身の不貞を問い詰めることを予感していたのだろう。父の浮気を教えたのは、話題を逸らすためではなく、それが一番効果的と踏んだからだ。  直哉が降る賽の目を予感していた。絶対に誰にも言わない。ただ一人、行き場のない怒りを押し付けて、苦しむ兄の姿を悠々と眺め続けていた母。 『お前といると、時々全部ぶちまけたくなった。あんな奴ら放っておいて、二人で暮らそう、俺が全部面倒を見るからって。…でもそんなことできるわけない。少し歳が離れてるだけで、俺はなんの責任も果たせない子供でしかないんだって思い知らされるのが辛くて、お前のこと避けるようになってた』  話してよかったんだよ、と言いたかった。けれどそれは、直哉が何年もかけて守り抜いた秘密に対し、価値がなかったのだと告げることと同じではないだろうか。ただの徒労だったのだと。  だから、茜は違う言葉を差し出した。 「直くんは、何も悪くない」  何も、のところに思いっきりアクセントをつけた。 「俺のこと避けたって、何も悪くないよ。そんなの、一人で抱えて…母さんが、全部直くんに押し付けただけじゃんか」 『それを言うなら、お前もだろ』  諭す響きはなかった。直哉も、ただありのままの気持ちを伝えてくれている。 『お前も悪くない。母親のしでかした事に対して負い目を感じるな』  その声に触れて、からりからりと記憶の中の小箱が揺れる。  まだ少年の面差しを残していた高校生の直哉。変わりゆく関係を持て余しながら生きていた大学生の直哉。  薄着のまま、家を出て行った直哉。  その背中に、やっと触れられた気がする。  月森、と呼ぶ声が聞けおた。すぐ行きます、という兄の返事も。 『…茜』 「うん」 『お前のこと、大切に思ってる。…弟として』 「うん」  くすぐったさに、小さな笑い声が漏れた。 「俺も。直くんのこと、自慢の兄貴だって思ってる」 『おう』  切れた電話を握ったまま、フローリングに頬を押し当てて仰向けになった。天井の近さに違和感を覚える。数時間前までいた慧の部屋が恋しかった。  言いたいことが全部言えたわけではない。きっと兄も同じはずだ。  でも、いつか。十年先、二十年先だって良い。  やっと部屋の空気が冷えて来た。だるさと眠気に飲み込まれ、ちょっとだけ、と瞼を閉じる。
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