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「結婚しまーす」
帰宅するなり母はそう宣言した。
算数のプリントから顔を上げ、口をぽかんと開けた。
「…誰と?」
「男の人と」
「そっか」
母は電子レンジを開け、「ご飯食べなかったの?」と訊いた。ラップがかかったままのカレーライスに気付いたのだろう。
机に乗ったレトルトの空き箱を見ながら呟く。
「それ、辛いんだもん」
もう買わないでと言ったのに、覚えていてくれなかった。きっとこの声だって届いていない。
「イケメンのお兄ちゃんも出来るよ。あ、引っ越すから、準備してね」
電子レンジの稼働音に交じって、上機嫌な声が聞こえる。
国語の教科書はランドセルから出さなかった。音読の宿題が、茜は一番嫌いだ。聞いてくれる相手もいないのに。
「学校は?」
「転校するよ、当たり前でしょ。木村先生には明日連絡しておくから」
鉛筆の芯がぽきりと折れた。
転校したら木村先生に会えなくなる。嫌だけど、なんで嫌なのと訊かれたら困る。
そうだ、さっちゃんとりかちゃんにも会わなくなる。
少しほっとした。二人共茜が好きだと言って、一緒に帰ろうとか、遊ぼうと誘っては喧嘩してる。あまりに頻繁でちょっと困っていたのだ。好きな人が同じなら仲良くして欲しいのに。
さっちゃんはうさぎみたいに肌が白くて、りかちゃんは長い髪が可愛いと思う。でも、可愛いと好きは違うみたいだ。茜が好きなのは木村先生だけど、可愛いと思った事はない。かっこいいな、は思うけど。
鼻歌を歌いながら母が目の前に座った。スパイスの匂いがぷんと香る。辛くて食べられないと分かっているのに、美味しそうと思ってしまうから不思議だ。
じっと見てると、母はスプーンをマイクのように向けて尋ねてきた。
「転校、嫌?」
「やだ」
「悲しい?」
「うん」
「ふうん」
嫌でも悲しくても、母の決めたことは変わらない。分かっているのに、茜は毎回素直に答えてしまう。
「木村先生って、彼女いるの?あれ、結婚してるんだっけ」
「知らない」
「へえ、偉いじゃない」
問題を解き終えたタイミングで褒められたから、驚いて顔を上げてしまった。母が褒めてくれるのはいつぶりだろう。
母はご飯とカレーを半々にスプーンに掬いあげ、ぱくりと口に含む。
「茜さ」
「うん」
「お兄ちゃんのこと、木村先生みたいに好きになっちゃだめよ」
これ美味しいね、くらいの気楽さで母は言った。
魚が水槽から引き揚げられたら、こんな気分なのだろうか。急に頭が重くなって、茜はみるみる俯いてしまう。
体の内側に氷を放り込まれたみたいに手足が冷たくなって、足先をぎゅっと丸めた。スリッパが脱げて、ころんと床に転がっていく。
「女の子は全然好きじゃないの?…やだ、泣かないでよ、ご飯食べてるのに」
茜には辛すぎて食べられないカレーを、母は美味しそうに食べている。涙でプリントを濡らしたくなくて、鼻をすすりながら机の端に寄せた。
木村先生が好きだということは、茜だけの秘密だったのに。簡単に口にする母が恨めしかった。
「お互い難儀よね、本当」
ナンギ、という言葉の意味は分からない。でも、いかにも残念でたまらないという表情から、良い意味ではないんだろうなと思った。
カレーのスパイスが目に張り付いたように痛い。
久々にインフルエンザにかかった。体調を崩すとすぐ扁桃腺が腫れてしまう。熱や倦怠感より、喉の痛みの方が何倍も辛かった。
体温計の電池を交換しにリビングまで降りたものの、二階へ戻る気力が湧かずにソファに寝転ぶ。あと数時間は誰も帰ってこない。少し体を休めてから部屋へ戻ろう。
うとうとしていると、扉の開く音がした。しばらくして、紙袋を下げた母が顔を出す。
「あれ、高校は?」
ダウンコートの肩に水滴がついていた。雨か雪が降りだしたらしい。
「インフルで休み」
「学級閉鎖?」
「違う。俺がかかってんの」
「ふーん、うつさないでね」
うつるもんか、と心の中で言い返す。最近、母は花野井の家に入り浸りだ。陶芸を始めたのだと言う。父も週を跨ぐ出張が増えていて、そんな時は決まって母も家を空けた。
台所で手を洗う間に、床に置いた紙袋がバランスを崩して倒れてしまった。寝転がったまま、飛び出た中身を目で追う。白木の細長い板…神社の神札だ。信仰心ゼロの人が珍しい。
「ねえ」
重い瞼を開くと、母が思った以上の近さで茜の顔を覗き込んでいてぎょっとした。
「言わないでよ」
「なにが?」
「あれ」
指さした先には、神札がある。
今言う事がそれ?と呆れた。こっちはインフルエンザで、週末は模試で、今、志望校の選定に大事な時期で。物理の成績がなかなか上がらなくて。
鷹揚に頷いて立ち上がり、二階の私室へ戻った。どうでも良かった。母が茜のことをそう思っているように。
カーテンの隙間から見えた冬空は、分厚い雲に覆われていた。じき、雪が降りそうだ。
伊豆は東京より暖かいけれど、風が強かった。海は写真で見るよりくすんでいる。曇り空をそのまま映しているせいだろうか。
母の爪の間に血が溜まっていた。即死でした。痛みはなかったと思います…じゃあよかった、とは思えない。
だって死んじゃったんだから。
なにも良くない。でも、一つくらい、「なら良かった」と思える部分を探していた。
──言わないでよ。
──なにが?
──あれ。
言えば良かった。訊けば良かった。
そしたら、もう少しましなお別れが出来たかもしれないのに。
辻のことも、彼を見た瞬間すべてを悟ったような父の顔も、横で長く細い息を吐いた兄のことも、何もかも忘れたくて、ただ、じっと母の指先を見た。中途半端に折れた第一関節。正しい方向に曲がっていて、良かったと思う。
あの時聞いたら、きっと何かが変わっていた。
「どうしたの、それ」って訊けば良かった。死は免れなかったとしても、兄や父が傷つかない終わり方を迎えられたかもしれない。
あったはずの未来。
もう一本の道の先。
茜は茜で、母は母だった。何度巡っても、同じ道しか歩けない。母の道は途絶え、茜の目の前には未だ森が広がっている。
慧に出会ってしまったから、茜は引き返すことはできない。
未来を願いたい。
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