【3】告白

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「結婚しまーす」  帰宅するなり母はそう宣言した。  算数のプリントから顔を上げ、口をぽかんと開けた。 「…誰と?」 「男の人と」 「そっか」  母は電子レンジを開け、「ご飯食べなかったの?」と訊いた。ラップがかかったままのカレーライスに気付いたのだろう。  机に乗ったレトルトの空き箱を見ながら呟く。 「それ、辛いんだもん」  もう買わないでと言ったのに、覚えていてくれなかった。きっとこの声だって届いていない。 「イケメンのお兄ちゃんも出来るよ。あ、引っ越すから、準備してね」  電子レンジの稼働音に交じって、上機嫌な声が聞こえる。  国語の教科書はランドセルから出さなかった。音読の宿題が、茜は一番嫌いだ。聞いてくれる相手もいないのに。 「学校は?」 「転校するよ、当たり前でしょ。木村先生には明日連絡しておくから」  鉛筆の芯がぽきりと折れた。  転校したら木村先生に会えなくなる。嫌だけど、なんで嫌なのと訊かれたら困る。  そうだ、さっちゃんとりかちゃんにも会わなくなる。  少しほっとした。二人共茜が好きだと言って、一緒に帰ろうとか、遊ぼうと誘っては喧嘩してる。あまりに頻繁でちょっと困っていたのだ。好きな人が同じなら仲良くして欲しいのに。  さっちゃんはうさぎみたいに肌が白くて、りかちゃんは長い髪が可愛いと思う。でも、可愛いと好きは違うみたいだ。茜が好きなのは木村先生だけど、可愛いと思った事はない。かっこいいな、は思うけど。  鼻歌を歌いながら母が目の前に座った。スパイスの匂いがぷんと香る。辛くて食べられないと分かっているのに、美味しそうと思ってしまうから不思議だ。  じっと見てると、母はスプーンをマイクのように向けて尋ねてきた。 「転校、嫌?」 「やだ」 「悲しい?」 「うん」 「ふうん」  嫌でも悲しくても、母の決めたことは変わらない。分かっているのに、茜は毎回素直に答えてしまう。 「木村先生って、彼女いるの?あれ、結婚してるんだっけ」 「知らない」 「へえ、偉いじゃない」  問題を解き終えたタイミングで褒められたから、驚いて顔を上げてしまった。母が褒めてくれるのはいつぶりだろう。  母はご飯とカレーを半々にスプーンに掬いあげ、ぱくりと口に含む。 「茜さ」 「うん」 「お兄ちゃんのこと、木村先生みたいに好きになっちゃだめよ」  これ美味しいね、くらいの気楽さで母は言った。  魚が水槽から引き揚げられたら、こんな気分なのだろうか。急に頭が重くなって、茜はみるみる俯いてしまう。  体の内側に氷を放り込まれたみたいに手足が冷たくなって、足先をぎゅっと丸めた。スリッパが脱げて、ころんと床に転がっていく。 「女の子は全然好きじゃないの?…やだ、泣かないでよ、ご飯食べてるのに」  茜には辛すぎて食べられないカレーを、母は美味しそうに食べている。涙でプリントを濡らしたくなくて、鼻をすすりながら机の端に寄せた。  木村先生が好きだということは、茜だけの秘密だったのに。簡単に口にする母が恨めしかった。 「お互い難儀よね、本当」  ナンギ、という言葉の意味は分からない。でも、いかにも残念でたまらないという表情から、良い意味ではないんだろうなと思った。  カレーのスパイスが目に張り付いたように痛い。  久々にインフルエンザにかかった。体調を崩すとすぐ扁桃腺が腫れてしまう。熱や倦怠感より、喉の痛みの方が何倍も辛かった。  体温計の電池を交換しにリビングまで降りたものの、二階へ戻る気力が湧かずにソファに寝転ぶ。あと数時間は誰も帰ってこない。少し体を休めてから部屋へ戻ろう。  うとうとしていると、扉の開く音がした。しばらくして、紙袋を下げた母が顔を出す。 「あれ、高校は?」  ダウンコートの肩に水滴がついていた。雨か雪が降りだしたらしい。 「インフルで休み」 「学級閉鎖?」 「違う。俺がかかってんの」 「ふーん、うつさないでね」  うつるもんか、と心の中で言い返す。最近、母は花野井の家に入り浸りだ。陶芸を始めたのだと言う。父も週を跨ぐ出張が増えていて、そんな時は決まって母も家を空けた。  台所で手を洗う間に、床に置いた紙袋がバランスを崩して倒れてしまった。寝転がったまま、飛び出た中身を目で追う。白木の細長い板…神社の神札だ。信仰心ゼロの人が珍しい。 「ねえ」  重い瞼を開くと、母が思った以上の近さで茜の顔を覗き込んでいてぎょっとした。 「言わないでよ」 「なにが?」 「あれ」  指さした先には、神札がある。  今言う事がそれ?と呆れた。こっちはインフルエンザで、週末は模試で、今、志望校の選定に大事な時期で。物理の成績がなかなか上がらなくて。  鷹揚に頷いて立ち上がり、二階の私室へ戻った。どうでも良かった。母が茜のことをそう思っているように。  カーテンの隙間から見えた冬空は、分厚い雲に覆われていた。じき、雪が降りそうだ。  伊豆は東京より暖かいけれど、風が強かった。海は写真で見るよりくすんでいる。曇り空をそのまま映しているせいだろうか。  母の爪の間に血が溜まっていた。即死でした。痛みはなかったと思います…じゃあよかった、とは思えない。  だって死んじゃったんだから。  なにも良くない。でも、一つくらい、「なら良かった」と思える部分を探していた。 ──言わないでよ。 ──なにが? ──あれ。  言えば良かった。訊けば良かった。  そしたら、もう少しましなお別れが出来たかもしれないのに。  辻のことも、彼を見た瞬間すべてを悟ったような父の顔も、横で長く細い息を吐いた兄のことも、何もかも忘れたくて、ただ、じっと母の指先を見た。中途半端に折れた第一関節。正しい方向に曲がっていて、良かったと思う。  あの時聞いたら、きっと何かが変わっていた。  「どうしたの、それ」って訊けば良かった。死は免れなかったとしても、兄や父が傷つかない終わり方を迎えられたかもしれない。  あったはずの未来。  もう一本の道の先。  茜は茜で、母は母だった。何度巡っても、同じ道しか歩けない。母の道は途絶え、茜の目の前には未だ森が広がっている。  慧に出会ってしまったから、茜は引き返すことはできない。  未来を願いたい。
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