62人が本棚に入れています
本棚に追加
カーテンのない窓の外に、逆さ向きの月が浮かんでいる。
寝過ごした。慌てて掴んだ携帯は、ボタンを押しても反応がない。充電が切れてしまったようだ。
「やっちゃったー…」
寝ぐせのついた後頭部を撫でながら起き上がり、スポーツドリンクを飲み干す。脱水症になる前に起きられて良かった。
もう明け方が近いようだ。月は薄雲に囲まれ、目に見えるのがやっとなほど細かな霧雨が降っていた。
置手紙なのにラインで送り返すのも変かな、と妙な所で悩んでいる内に、返事をしそびれてしまった。
無人の部屋、何も残さず去った茜をどう思っているだろう。傷ついたり、不安になっていないだろうか。
少しでも早く慧と連絡をとりたくて、コンビニで充電器を調達することにした。急いた気持ちでスニーカーの紐を結んでいると、玄関扉の向こうから微かな物音が響いている。猫が雨宿りでもしているのだろうか?
「…え?」
扉の隙間から外を伺うと、煙草の煙が漂ってきた。軒先には二つの後ろ姿。猫、ではない。
「…慧?」
「おはよ」
ウインドブレーカーを着た慧が振り返る。隣で煙草を吸っているのは聡子だった。
「え、何でいるの?何してるの?」
「こっちの台詞だっつーの」
慧は複雑な表情で手招きする。
「家にいないわ、連絡つかないわ」
「ごめん、すぐ帰るつもりだったんだけど寝ちゃってて…電車で来たの?」
だとしたら、数時間も野ざらしで過ごしていたことになる。
違う、と慧は襟元の紐を引っ張った。
「直に車出してもらった。着いたのは一時間くらい前かな」
「直くんも来てるの?どこ?」
数時間前に交わした会話を思い出し、急いたように尋ねると、何故か聡子が「ごめんね」と呟いた。
「母がまた、徘徊しちゃってて。お兄さん、探しに行ってくれてるの」
「いやーびっくりしましたよ、霧の中からぬーって人影出てくるんだから」
高原の朝に似た肌寒さだ。階段に腰掛けながら二の腕をさすっていると、気付いた慧がウインドブレーカーを肩からかけてくれる。
「今何時?」
「四時ちょいすぎ」
眉間に皺を寄せながらホットコーヒーをすする拍子に、睫毛の先についた朝露が震えた。
「わざわざ来なくて良かったのに。明日になれば帰るし」
「分かんねーじゃん」
珍しく、慧が不機嫌そうに唇の端を曲げた。
「誰も保証できないだろ。人の心配をそんな風に言うな」
「…うん」
明日が来ることを、慧は信じていない。悲嘆しているのではなく、来るも来ないも、半々だと思って生きている。
ごめん、と言おうとしてやめた。
「ありがと、慧」
「うん」
聡子は相変わらず疲れた表情をしていた。足元の紙コップには、煙草の吸殻が数本雨水に浸っている。
「百合子さん、よくお散歩に出ちゃうんですか」
慧がコーヒーの蓋を外しながら言う。
「そうね。このくらいの時間は、特に」
「じゃあ、あんま寝れないっすよね」
返事の代わりなのか、額に親指を当ててため息をつく。爪の間にたまった茶色い汚れをほじる横顔に、茜はおずおずと声をかけた。
「あの、良かったら中で寝て待っててください。布団とかはないんですけど」
聡子は首を横に振る。濡れたアスファルトの匂いがかき消したのか、今日は抹香の香りはしなかった。
「茜くん、大事にされてるのね」
「え?」
「たった一晩家を空けただけで、男二人がわざわざ東京からやって来るなんて。大騒ぎじゃない」
「いや、別にそんなことは…」
どう答えればよいのか、赤くなった顔を伏せる茜を余所に、慧が不服そうに声を上げる。
「だって心配でしょ。急に連絡つかなくなったんですよ」
「携帯の充電切れちゃって…」
「あたし、ママに連絡しないで外泊なんてしょっちゅうだったわよ。向こうもそうだったし」
聡子は「まあ、いろんな家があるってことよね」と大雑把にまとめる。
「昼間、誤魔化しちゃってごめんね。お母さんのこと」
「あ、いえ。俺こそ、話しづらい事聞いたから」
「別にそんなでもないわよ。ただ、ああいう場所だとさ、誰が聞いてるか分かんないでしょ。田舎って、姿が見えてなくても誰かが耳をそばだててるもんだから」
さすがにこの朝方は誰もいないとみて、聡子は話し出した。
「男を取り合ったのよ、あなたのお母さんと、うちのママ。うち飲み屋やってたからさ、そこの客とこじれたのよね。親子並に歳離れた女同士、何やってんだかって話だけど」
予想通りの内容に、呆れ混じりの笑いを返すしかない。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
「別に茜が謝ることないじゃん」
慧が頬杖をついて言う。嗜めようとすると、聡子も同調した。
「そうよ。謝ることないわ」
煙草を紙コップに放り込んで言う。
「あたし、あの男嫌いだったから、むしろあなたのお母さんには感謝してるのよ」
「…え」
耳慣れない言葉にぽかんとする。
感謝。
誰に──母さんに?
「結構なキャットファイトだったらしいわよ」
霧雨に濡れた髪を片側に寄せ、あっけらかんとした笑みを浮かべる。
「知りたかったなー、あの女がどんなに盛ったか。牧さんが亡くなってるって知って残念だったもん。話聞きたかったのにさ」
「…そう、ですか」
慧はどこかぼんやりとした茜の反応が気になるのか、ちらりと視線を送った。
聡子は家を仰ぎ見て言う。
「再婚してここを出てったのよね?」
「はい」
「家を売り払わなかったのって、何か理由あるの?」
「片付けが面倒だったんじゃないですか」
茜の言いづらさを推し量ってか、慧が話に割り込む。
「地価が上がる方にかけて置いておいたのかもだし。実際、あの頃より今の方が高いらしいし」
嘘ではなかった。確かに母は、売値を言い訳に家をそのままにしていたのだ。直哉から最終価格の着地点を聞いてはいないが、そう酷い数字ではなかったらしい。
男遊びのために残した家だと思っていたけれど、直哉の話を聞いた今、茜には違う考えが浮かんでいた。
母は、不安だったのではないだろうか。
父の浮気を静観していたとは思えない。何かしらの駆け引きや細工をしたけれど、父は他の女性に手を出し続けていたとしたら。
いずれ捨てられる未来を予想し、家を持ち続けたかったのかもしれない。母さんは、幸せではなかったのかもしれない。
死者に答えを求めることはできない。だから茜は考えるしかない。
母の本当、嘘。どちらに流れる水も寂しく、陰鬱な色を宿しているけれど、それが母の人生だったのならば見届けたかった。
細い支流は大海原に交わり、もう、どれが本来の色だったか判断はつかないけれど。
「損したって思いたくないもんね」
その説明に、聡子も納得したようだった。新しい煙草を深く吸い込み、長く細い息と共に吐き出す。
「にしたって憂鬱だわ。ママが死んだら一人であの家片付けなきゃなんないなんて。所有者が死んだら、持ち物も一緒に溶けて消える技術でも開発されないかな」
「はは、良いっすねそれ。うっかりその人に借りた服とか着てたらやばそう」
随分打ち解けた雰囲気だ。二人の気安いやり取りがなんだか面白くなくて、スニーカーの先で砂利をいじっていると、慧が肩に腕を回して片目を瞑ってみせた。拗ねるな、と言われているようでやっぱり面白くない。
昨日の夜のような空気がずっと続くのも困るけれど、まるでなかった風にされるのはもっと嫌だった。茜の前で聡子と親し気に振舞うのは、誠意に欠けている気がする。
「まあ、そんなわけにもいかないか」
数秒前の笑い声が嘘のように、温度のない瞳で聡子が瞬きをする。
「あたしからしたら、中の物も含めて全部ごみでしかないんだけどね。燃えるとか燃えないとかナシにして、せーので放り込める焼却炉でもあれば気持ち良いだろうな」
「物って捨てるのにも金かかりますもんね」
徘徊する母を追って夜道を歩く一方、まるで存在そのものを否定するような言葉を口にする。どちらの本音に傾くでもなく、ややずれた同意をする慧は、やはり人を良く見ていると思った。
否定したり庇ったり、同調しながら疑問を覚えたり。茜も聡子と似た思いを抱えていた。
母さんのこと、結局俺はどう思っていたんだろう。
「茜くんは?」
急に話を振られ、少し戸惑った。
「忘れ物、見つかった?」
「あ、はい」
「お母さん絡みなんでしょ。どんなの?」
「雑誌です」
慧の視線を感じて俯いた。体は冷えているのに、顔だけは炎に照らされているかのように熱くなっていく。
「何か特別な本なの?お母さんが載ってるとか」
聡子は訝しそうに問いかける。
「いえ、そうじゃないんですけど、でも…」
小さく息を吸って言い切る。もう、どうにでもなれ。
「──大切なんです。母のために、選んでくれた物だから」
母の荷物を全部捨てることも、抱えていくこともできない茜なりの、精一杯の妥協点だった。
「優しいね、茜くんは」
「そんなこと…」
「マジで優しいですよね」
謙遜ではなかった。優しさと言い切るには不純物が多すぎると思って否定したのに、慧があまりに真摯な声で同意するから、それ以上は言えなかった。
「あたし、ママが死んだ後にそんな風に思えるかな」
呟いてすぐ、首を緩く横に振る。
「…死んだ後の話ばっかりしちゃうわね」
「良いじゃないっすか。人はいつか死ぬんだから」
明るく言い放ちながら、茜の顔を覗き込む。
「俺らなんて、自分の葬式のこと考えてるもんな。な?」
「う、うん」
「あたしそういうの駄目なのよ、なんか不安になっちゃう」
口にしながら違和感を覚えたのか、苦笑いと共に「違うか」と独りごちた。
「不安っていうより、焦りよね。ママが死んだ時、悲しめなかったらどうしよう、どうにか悲しめるようにならなきゃって…だから、ママと良い感じの思い出を作ろうって頑張ってたんだけどさ。まあ、無理だったわね」
ため息はなく、諦めの滲んだ笑い声と共に聡子の肩が揺れる。その拍子に、肩からひらりと何かが落ちた。
桜の花びらだ、と思った。夏に咲くものでもないのに。
当たり前にそれは桜などではなく、一頭の蝶だった。いつから聡子の肩にいたのか、薄闇の中、じっと小石の上に留まっている。
「茜くんは?」
「え?」
聡子の瞳とかち合う。
救いを求めるような──縋りつくような。
「お母さんが死んだ時、悲しかった?」
小石の上の蝶が上へ上へと羽ばたいていく。朝日に縁どられて淡く光る姿が、頼りなく、物悲しい。
「…俺は…」
思い入れも何もない、ただの蝶に悲しみを覚える自分に驚いた。一頭だけだから?飛び方がいかにも力なく、弱々しいから?
薄い羽を震わせながら、蝶は雲間の切れ目から零れる陽光へ向かって飛んでいく。紋白蝶、揚羽蝶──どちらでもない。薄い羽は光に当たると色すら消えてしまった。
長く生きられないと予感させる動きに同情しているのか。それとも、蝶の命の短さなどまるで関係なく、茜が悲しいということだろうか。
白み始めた空の端が、紺色と珊瑚色に染まっていく。その色を吸い取ったかのようなワンピースが風景の隅を横切った瞬間、霧雨を照らすヘッドライトが母の残像を消し去った。
兄の運転するアウディが、砂利道の上を踏みしめて入って来た。
聡子の目線が助手席で眠る母親を捕らえる。安堵と、徒労が混じった瞳で。
「…つまんないこと聞いたわね。ごめんなさい、忘れて」
ため息と共に立ち上がった拍子に、ぱきりと膝の関節が鳴った。
「花野井にはもう来ないのよね?」
「…はい」
頷くことに迷いはなかった。
もう、ここには来ない。母の魂は、遠い北の地にあるから。
「元気でね」
表情を見る間もなく背中を向け、ライトの中、暗いシルエットになって夏の夜と朝の狭間を歩き出す。
慧も付き添い、直哉と二言三言会話を交わしていた。直哉は茜に視線を向けてから頷き、運転席の窓を閉める。
親子を乗せた車は夜明けの町へ走り出し、軒先には慧と茜だけが残された。薄雲は去り、林の彼方には金色の日の光が差し込んでいる。
「直と話さなくて良かったのか?」
「うん。昨日、少し電話したし」
「そっか」
慧が体の隙間で指を絡ませた。茜も握り返す。
「茜」
慧が名前を呼ぶ。手を繋いだまま、そっと。
「お母さんが死んで、悲しい?」
全然、と否定できるはずだった。
だって慧が傍にいる。直哉もわざわざ東京からやって来てくれて、もうじき三人で一緒に帰るのだ。
前より色々な話が出来る気がした。きっと楽しいドライブになる。悲しいことなんて何もない。
だが、打ち消そうとすればするほど、薄水色のベールが心を覆っていく。
悲しい、悲しい──悲しい。
がらんどうの家を覆うように、朝日が影の位置を変えていく。そして、茜の上にだけ雨が降る。
悲しい。
好きに生きたと思っていた母が、誰か一人から愛され続けることもなくて。
悲しい。
母が何より望んだことが叶えられなくて。
「…悲しい」
「うん」
いびつな影が二つ、砂利の上に描かれる。
影の形が変わった。慧がチョコレートバーを差し出したからだ。
「飯食ってないだろ」
半分包装紙が向かれたチョコバーを、慧の手から直接齧る。キャラメルが甘すぎて、味覚が麻痺しそうだ。ミルク臭いばかりで全然美味しくない。
「朝飯どうする?サービスエリアのラーメンか、ファミレスで塩鮭定食な気分なんだけど。茜、どっちが好き?」
「慧」
「うん」
「好き」
コーヒーを口に運びかけていた慧の影が止まる。
どうして泣いているのか分からなかった。空腹で口にした食べ物が美味しくないから。母さんにもう会えないから。慧が傍にいるから。
慧のことが、大好きだから。
思い出したくなかった。あの日、鶴堂で母さんに伝えたかったこと。
店員と話す母は、本当に綺麗だった。桜色の唇、耳には真珠のピアス。美しさが誇らしくて、手を繋いでくれたことが嬉しくて。
──おかあさん、だいすき。
舌ったらずに伝えた茜に、店員も、周りにいた客も一斉に笑った。母だけが、戸惑ったように茜を見下ろしていた。
それでも、伝えたかった。
私は違う、と返されても。同じ気持ちにはなれなくても、母さんが好きだった。
茜にとって、たった一人だけの人だから。
他の誰かと同じように愛したりしないと、言えていたなら。
「慧、好き…」
拭っても拭っても、涙は止まらなかった。
泣かなくても死者を悼むことは出来る。お墓の前で手を合わせなくても、花を飾らなくても、線香を立てなくても。ただ、胸の内で思い浮かべれば、いつでも死者を悼むことは出来る。
でも、茜は泣きたかった。
泣いて泣いて、体がしぼむくらい泣きつくして、母のために泣きたかった。
それが悔しいと思うほど、母が好きだった。世界中の誰もが母を嫌っても、茜だけは嫌いになれない。
慧の掌がゆっくりと頭を撫でる。
「慧、好き…」
「うん」
こめかみに唇が押し当てられる。
二年分の悲しみと、二か月の恋心がぽとぽとと零れていく。
本当は、ありがとうも伝えたいのに、また口から「好き」が零れる。
好き、嫌い、悔しい、なんで。いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ぜ合わされて、涙になる。
どしゃぶりの雨が泥を巻き込んで湖になり、その底で輝く光が茜を水上へと導く。
慧が好き。
慧は茜の頬に両手を這わせると、涙にしとどに濡れた顔を覗き込んで微笑んだ。
「やっと泣いたな」
親指で、涙の跡を拭う。
「好きだよ、茜」
「…嘘」
「嘘ついてどうする」
「俺、男だもん」
駆け引きに過ぎないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「話したじゃん、男でも良いって」
「お、俺は男じゃなきゃ駄目で…ってかなんで?」
「なんで、って」
腰が引けそうになるが、顔が固定されていて身動きが取れない。
「そういう話はベッドの中でしたいんだけど」
「やだ!」
一瞬で色々な想像が頭を駆け巡り、反射的に叫び返す。
「おい、告っておいてそれか」
「だって、だって」
「でさ、茜ってどっち?抱きたい側?抱かれたい側?」
「朝っぱらから変な事言うな!」
「変じゃないだろ、付き合ってんだから。ちなみに俺は俄然抱きたい派」
「聞いてないし!」
付き合ってる、とさらりと言われてますます混乱した。好き。慧が俺のことを好き?
また、何でと言いそうになり慌てて口を閉じた。
「寂しいなー」
慧はさも傷ついたと言わんばかりの表情だ。演技だと分かっていても申し訳なく感じてしまうのは、惚れた弱みだろうか。
「あれだけ真摯に口説いてたのに、そんな冷たくすることなくない?」
心当たりがある分、言い返せなかった。
「…ご、ごめん」
「じゃあこっち見て」
頬を柔らかく揉まれて視線を合わせる。半ば諦めに近かった。
これからもっと、この人のことを好きになってしまうんだろうな。
今日の茜は明日へと続いている。この気持ちは絶え間なく連綿と続き、好きの気持ちは、もっと強く、深くなる。
頬を包まれたまま、唇が重なった。慧の唇は薄いのに、柔らかくって、コーヒーとキャラメルの味が混ざってお菓子みたいだった。
一度離れて、またくっつく。またあの味を楽しみたくて、小鳥のようについばむと、含み笑いが漏れ聞こえた。
「やばい、死ぬほどドキドキしてる」
「…俺も」
「良かった」
息が触れる距離で慧が囁く。
「…もっとドキドキさせても良い?」
頬から離れた手が背中に触れる。茜も、両手を慧の肩に置いた。
初雪の積もった場所に足跡を残すように、これから先、触れたり、触れられたりする度、茜には慧の形が残っていく。
夏の朝が来る。精一杯生きようと蝉が鳴く。
生きよう。明日が来ることを期待して。
時々泣いて、怒ったり、すれ違ったりもするだろうけど、精一杯伝えるのだ。
慧が好き。
大好きだ。
最初のコメントを投稿しよう!