【4】ふたり

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【4】ふたり

 ノッカーのついた重い木の扉を押すと、バーカウンターの上の橙の明かりが揺れる。まだ開店時間前だというのに、店には先客がいた。  広い背中。まだ筋肉が落ちていないことはシャツの上からでも分かる。  こいつはとにかく肩が強かった。長い腕で水をかき分け、狭いプールに閉じ込めておくことが罪に思える、そんな泳ぎをしていた。 「よう」  カウンターの中からマスターが目線で会釈をする。直哉は振り向かないまま、琥珀色の液体が満ちたグラスを傾けている。 「すぐ分かりましたか」 「一度通り過ぎちゃいました。ここ、営業は九時からですよね」 「ええ、でもお得意様にだけはこっそり」  そのお得意様は、礼を言うでもなくビーフジャーキーを齧っている。 「バーボン?」  直哉はグラスを揺らして言った。 「ワイルドターキー」 「俺、ギムレットで」 「用事あるのか」 「茜が家に来るんだ」 「マスター。こっちの客にアイスピックを」 「おい、おかしいだろ」  幸い、マスターはお得意様より慧の注文を優先してくれた。グラスを軽く掲げて乾杯する。  一口飲んで、良い店だ、と思った。こいつらしいとも。  不思議だ。十五歳の月森直哉からは酒の香りなど一切しなかった。  こいつがどんな酒を好むか、どんな大人になるか、想像したことすらなかったというのに、慧は二十五歳の直哉らしさをすでに理解している。  そしてそれは、直哉も同じなのだろう。 「片付いたのか、全部」 「ああ。江間のばあ様も施設に入ったよ」 「そっか」  薄闇の中揺蕩う煙草を思い出す。遅れて、本物の紫煙が鼻先に流れ込んだ。 「茜に礼を言われた」 「なんの?」 「分からん」  唇に触れたライムを沈めながら、慧は「嘘だね」と言い返した。 「お前、分かってるだろ。俺に話すつもりがないだけで」 「だったらなんだ?」 「別に。マウントとられてんなってだけ」  直哉が笑った。右側だけえくぼが出来るのを見て、茜と一緒だ、と思う。  母のこと、今までのこと。色々ひっくるめての礼だったのだろう。そこに自分との出会いが含まれているのか考えている事に気付き、苦笑と共に酒を飲み込む。 「なあ。なんで俺に声かけたの?」  数か月前、鶴堂に現れた直哉を見て、冗談じゃなく幽霊かと思った。  十年ぶりだった。背はさらに伸び、精悍さが増した顔で、真っ直ぐ慧を見ていた。スタート台に立ち、ゴーグルを下す寸前と同じ瞳で。  呆然と見返す慧に、直哉は言った。借りを返しに来た、と。  覚えてたのかよ。気恥ずかしさに、自分がどこにいるかも忘れて顔を顰めた。  鮮烈な夕暮れを幾度も見上げた、あの夏。 ──貸しだから!  喉がかききれる程叫んだ。プールにぼたぼたと涙を零し、拭い、また溢れた。 ──お前、俺にめっちゃでっけぇ貸し作ったからな!覚えとけ、くそ野郎!! 「あの時の客」 「どの客だよ」 「お前が接客してたスーツの連中」 「…ああ」  保育士への贈り物を探していた、同世代の二人組のことだ。 「同じ指輪してたよな」 「目敏いね、お前」 「ああいう客って多いのか?」 「まあ、場所柄珍しくはないんじゃない」 「だから平然としてたのか、お前」 「別に…普通とは言わないけどさ、じろじろ見るようなもんでもないだろ。ただ付き合ってるってだけなんだから」  灰皿の縁に煙草を置き、直哉は「それもそうか」と呟く。 「ってか、話逸らすなよ」 「お前になら、託しても良いと思った」  誰を、と直哉は口にしない。 「…親を突然亡くした者同士?」 「それもあるけどな。お前と話してると、何でか馬鹿になれるんだよ」  夕日の中、背中を見せて去った男が隣に座っている。低くなった声、シャープになった輪郭。 「あの時、お前に気持ちをぶちまけさせてもらえなかったら、生きていくのがしんどかったと思う。もっと、ずっと」 「…大したことじゃないだろ」  そう、本当に大したことじゃない。 「ただガキだっただけだよ。どうしようもなく身勝手で、青臭くって…」 「馬鹿だった」 「おい」  直哉の口元は緩く弧を描いている、それが嬉しい。 「…あいつにも、ぶちまけてほしかったんだよ」  貸しだの借りだの、自分達には似合わない。  ただ、泳ぐのが好きだった。ただ己と向き合う時間、一ストローク、手の上に渦を作って、ただひたすら前へ前へ。  その時間を少しでも、直哉と共有したかった。  ラストスイムに挑み、慧が勝ち、それでもわだかまりは消えなかった。  プールサイドで制止する千加を無視し、結局、水の中で派手な口喧嘩が始まった。 ──ふざけんなよ、親がなんだよ!たった一か月も待てねえのかよ! ──言ったに決まってんだろ!大会出るから待っててくれって!でも、親父は、俺より、母さんより、妹より、知らねえ女を取ったんだよ! ──じゃあ行かないって言えよ! ──父さんが、やっぱり元の家族といたいって思った時、俺が傍にいなかったら戻れなくなるだろ!誰かは行かなきゃいけねえんだよ! 「どんな人だったんだ」  ライムを絞りながら尋ねる。 「茜の母親…うーわ、怖っ」 「口にしたくもない」  犬歯でぶちりと薄い干し肉を嚙み切った。先ほどまで上手そうにしていたのに、今はゴムを噛んでいるような表情を浮かべる。 「考えたくもない」 「そっか、もう訊かない」 「ただ」  嫌悪を一ミリも隠さず、死者を悼む憂いもなく直哉は言う。 「察しの良い女だった。恐ろしいくらいに」  同族嫌悪?言おうとしてやめた。  直哉の察しの良さも野性的なものがある。互いの考えていることが手に取るように分かる。絶対に暴かれたくない秘密共有してしまう──そりゃしんどいわ。  直哉は茜の母の死を、全く悲しんでいない。そう感じることへの後ろめたさもない。  茜の涙が脳裏に浮かぶ。直哉がこれほど憎む人を、茜は大好きだったと言う。  無垢な愛は愚かさと表裏一体というなら、茜の無垢さを守ったのは、他でもない、直哉だったのだろう。 「てかさ」  ピスタチオの殻を剥こうとするが、深爪のせいか、指先が滑ってしまう。 「お前は良いわけ?俺、茜と付き合ってるよ」 「マスター、アイスピック」 「おい」 「良いも何もないだろ。当人同士で決めろ」 「決めたから報告してんじゃん」  やっと剥けたピスタチオの実は、半分に割れてしまった。一遍に口に放り込んで咀嚼する。 「驚かねーのな」  見透かした上で呼び出されたのだろうから、伝える時は小細工なしでと決めていた。それでも、一切の動揺を見せない姿が子憎たらしく思えてしまう。 「初めて会った時、あいつの顔に穴空くんじゃないかってくらい見てたからな」 「あの顔なら大抵の人間はまじまじと見るだろ」 「大切にしてくれ」  愛している、と聞き違えたのかと思った。  それほどに真摯な声だった。  叶わないな、と負けたくないな、が胸に渦巻く。  ポケットの携帯が震える。通知画面にのメッセージを見て、「これ聞くの、最後にするけど」と言う。 「堂々と手放せるのが不思議だよ。…本当に、良いんだな」 「妙な探り方するな。お前の勘違いだよ」 「マジで?」 「ああ」  直哉は微笑んだ。 「俺は兄貴で、あいつは弟だ。…それ以上でも、以下でもない」 「…マウントかい」  おしぼりで手を拭き、ギムレットを飲み干した。背筋を正し、真っ直ぐに直哉を見つめる。  あの夏のプールではできなかったことを。 「…大切にする」 「オウム返しは芸がねぇぞ」 「お前に具体的に宣言するわけねぇだろ!」 「うるさい。もう行け」  しっしと追い払われる。直哉のグラスの中身はまだ残っているから、しばらく居座るつもりなのだろう。もしかしたら、誰かと待ち合わせをしているのかもしれない。  腹は立ったが、大目にお代を置いた。マスターが微笑んで会釈をする。  直哉はもう何も言わなかった。  薄く纏った静謐さが、茜と似ていると思った。
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