【4】ふたり

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 年々、夏の終わりが伸びている気がする。去年のこの時期は麻のジャケットを羽織って退勤していたのに、今日は鞄にひっかけているだけでも煩わしいほどの暑さだ。  それでも、気の早い人はすでに秋物を身に纏っていた。ショートブーツで闊歩する人。バーガンディーの口紅で彩る人。  新宿に通うようになって数年経つが、東口へと続く道の混雑には未だに驚かされる。余程遅くならない限り地下道から帰る癖がついているため、地上を通るのは久しぶりだった。信号待ちの人の列の最後尾に並び、夥しいのネオンの灯りを眺める。  来月は母の誕生日だ。今年はスカーフにしようぜ、と弟が言っていた。父が若い頃プレゼントしたエルメスを何十年と使っているけど、そろそろ変え時だろうから、と。  兄も反対しなかった。何かにつけ口論をしてばかりなのに、母絡みの話題だと阿吽の呼吸をみせるから不思議だ。  兄達のように、母の悲嘆に寄り添えない自分は薄情なのだろうかと思い悩みもした。家族を亡くす、という同じ体験をしたのに、悲しみの深さが違うことへの後ろめたさを今も抱えている。  携帯が震える。茜からだった。もう駅に着いたらしい。あと十五分くらいだから待ってて、と送る。  直哉に二人の関係を話すことを茜には伝えていなかった。なんとなく、その方が良い気がした。  慧と直哉、茜と直哉。それぞれで違う関係を築いているから、それぞれのタイミングで伝えれば良い。直哉も、茜に今日のやりとりを話はしないだろう。  もしかしたら、慧が自覚する以前から、直哉は胸の内に芽吹いていた思いを感じ取っていたのかもしれない。そんなに茜の顔ばかり見ていただろうか?直哉と似てないな、とは思ったけれど。  滑らかな白い肌、アーモンド形の瞳はレモンを一滴たらした紅茶の様に澄んでいる。骨格、雰囲気、直哉とは何一つ似ていなかった。  血が繋がっていない事は知っていたのに、無意識の内に二人に共通点があるものと思い込んでいた。  母親の遺品整理に見ず知らずの人間が居合わせても受け入れる姿勢に内心突っ込んでいたが、他人様の事情に首を突っ込むほど不躾ではないつもりだった。  でも、つい悪い癖が出た。相手の思考を読もうとする。一歩先の行動を考えて動く。  この子、泣きたいんじゃないかなあ。  母親の遺品に触れる手は丁寧だった。「いらない」ボックスにいれる前、一つ一つをじっくりと眺めていた。  いじましさに釣られて、「茜、これどうする?」と尋ねてみた。好きにしてくださいなんて投げやりな言葉に、あれ、と違和感を覚えた。  探る気配を察知したのか、どこかへ出かけたと思えば怪我をして、相手を庇う。  全く意味が分からなかったけれど、直哉の話通りなら、茜の母絡みなのだろうと当たりはついた。だからといって、怪我を負わされて黙っているのは違う。茜は何も悪くないじゃないか。  泣けば良い。怒れば良い。周囲を思いやることと、自分の感情に無頓着でいることは違うのだから。  大学での去り際、名残惜しそうに見つめる瞳が忘れられなかった。絶対に泣かせてやると意固地になったが、傷付けたくはなかった。 茜 は慧をおせっかいだと言うけれど、誰にでもするわけではない。すべての人に手を差し伸べられるほど慈悲深くはないし、何より慧の身がもたない。心にも質量は存在すると思っているので、好きな子には一等手間をかけたいし、その好きな子が茜だったからあれこれ声をかけた、それだけだ。  信号が変わる数秒前から、気の早い人々が歩き出す。  泊っていくよね、と昨日電話で軽くジャブを入れた。返事は「うん」の一言でそっけなく、それが嬉しかった。下心を汲み取った上で照れているのだと分かったから。  茜を抱く。嬉しい、ものすごく幸せだ。  男を抱くのは初めてだから、少し緊張している。一緒に気持ちよくなるための勉強はしたし、体の作りが同じ分、すぐに快感が得られる場所は分かるのだから、有難いといえば有難いのだが。  キスは何度もしている。唇以外にも。茜の肌は柔らかくって、左耳に沿って下した首筋が敏感だった。真っ白い肌が薄桃に染まる様を思い出し、気の早い体の熱を霧散させようと頭の中で別の事を考える。  そう、まずは食事だ。華奢な割に茜は食べっぷりが良い。魚をリクエストされたから、刺身が売りの居酒屋へ連れていこう。そろそろ鰹が食べ納めだし、すっきりと味付けた煮魚も食べさせたい。  改札を抜けた瞬間、ホームから発車ベルが鳴り響いた。階段を駆け下りて、扉が閉まる寸前乗り込む。ドア近くの手すりにつかまっていたサラリーマンが迷惑そうに視線を送ってきたので、軽く頭を下げた。  五分も待てば次の電車が来るのに、なにやってるんだか。  電車はすぐにトンネルに入った。窓硝子に映った自分の口元が緩く微笑んでいるのは、浮かれた思いを隠せないからだ。  触れて良いのだと許される瞬間を、早く迎えたかった。
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