62人が本棚に入れています
本棚に追加
直哉が戻ってきたのは、それから十五分程経ってからだった。
「おかえりー」
「茜、なんで怪我したんだ?」
玄関で明るく出迎えてみたが、効果はないようだ。仏頂面に拍車がかかっている。
「ぶつけた」
背中で指を組み、用意していた言い訳を口にする。
「どこに?」
この場で話しきりたかったのに、兄はさっさとリビングに向かってしまった。広い背中に向かって説明を続ける。
「階段の手すり。欲張って物持ちすぎちゃったみたい。バランス崩してぶつけちゃった」
慧が口を出さないか気がかりだったが、背中を向けたまま作業を続けている。直哉もそれ以上追及せず、床に座ると湿布のフィルムを剥がし始める。
「腕、出せ」
「ん」
ひんやりとしたジェルが皮膚を覆うと、じんじんとした痛みが僅かに引いていく気がする。一番大きなサイズを二枚使い切り、赤く腫れた部分を覆いきることが出来た。
慧に大したことはないと言った手前顔には出せないが、骨にひびが入っていないか不安だった。二の腕が折れていたらギブスってどうなるんだろ。
インタホーンが鳴ったのは小一時間後だった。
「はいはい、っと」
「ピザでも頼んだのか?」
家主さながらの足取りで慧がリビングを出て行く。すると、玄関の方から女性の声が聞こえてきた。さっきの老女かと耳を澄ませたが、明らかに声の高さが違う。
「直、お客さん」
廊下から顔をだし、慧が手招きをする。直哉は怪訝そうにしながらも立ち上がった。
落ち着かない心持でいると、玄関から「茜、来い」と声がかかった。この手の呼び出しで良い知らせだった記憶はないが、渋々腰を上げる。
玄関には見知らぬ女性が立っていた。四十代前半に見えるが、茜は女性の年齢を当てるのが不得手なので、実際はもう少し上かもしれない。
女性は湿布を貼った茜の腕を見ると、ぱたんと折れる様に頭を下げた。
「申し訳ありません。先ほどは母が」
「え?」
女性の手に握られた杖を見て、思わず慧に視線を向けた。壁にもたれて腕組みをしたまま、のんびりと首を横に振られる。
「四軒隣に住んでる江間聡子さん」
淡々とした声で兄が告げた。
「お前とひと悶着あったおばあ様の娘さんだ」
「あ~…」
どうやらすっかりバレているらしい。慧はフォローに入る様子もなく、したり顔で話を聞いている。
「本当にごめんなさい。母、認知症が進んでいて。時々気性が荒くなるんです。怪我の具合はどうですか」
「あ、大丈夫です。大したことないんで」
素早く手を振った拍子に鈍痛が走り、思わず眉間に皺が寄ってしまう。
「畑で作業している間に家の外に出ちゃったみたいで…杖が壊れていたから話を聞いたら、ここの家の人に手をあげたっていうものだから」
そして、慧はあっさり認めたのだろう。話を合わせてくれなかった薄情さを恨む。
「空き家だと思って近付いたら、急に俺と出くわしてびっくりしちゃったんですよ、きっと」
「猪でもあるまいし」
慧が呆れたように言う。余計な口挟むな、と胸の内で文句をつけた。
「お母さまは今どちらに?」
直哉は軽口に取り合わず、ぶっきらぼうに尋ねた。怒っているわけではなく、普段からこの調子なのだ。
「寝ています。随分興奮していたから、疲れたみたいで」
「ケアマネさんついてます?」
慧が会話に割って入る。
「ええ」
「じゃ、今日の件伝えておいてください。他人に手を上げるなら、あなたにだって何するか分かんないし。家で介護されてるんですよね」
「はい。本人が施設に入るのを嫌がって」
「こういう事があると、周囲の説得する姿勢も変わりますよ」
「…そうですね。ありがとうございます」
聡子が帰ると、慧は「腹減ったー」と買い物袋を漁りだした。
「あ、親子丼あんじゃん。食って良い?」
「好きにしろ」
まるで来訪者などいなかったような会話が、却って気まずかった。
茜の嘘の理由を、直哉は見抜いているのだろう。追及しないのは慧の手前だからか、故人である母に興味がないのか、それとも、母の話などもうしたくないのか。
全部だろうな、と結論を出す。仕事が休みの日に遠出して、家の整理に赴いてくれただけでも御の字だ。直哉の心をかき乱す真似はしたくなかった。
「でさ、茜泣かないの?」
「え?」
問いかけの意味が分からず、反射的に顔を上げた。電子レンジの前に立った慧が、首だけこちらに向けて見つめている。
「結構な勢いで叩かれてたじゃん」
茜は目を伏せたまま「いらない」段ボールにパンプスを仕舞うと、努めて平静な口調で言った。
「そこまで痛まないから」
「ふーん。直哉、このレンジ何ワット?文字消えてるんだけど」
「知るか」
「爆発させても怒んなよ」
出汁と卵の匂いがふんわりと部屋を包み込む。こちらはまったく食欲などないのに、能天気な姿が羨ましかった。
最初のコメントを投稿しよう!