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あと十五分くらいで着くよ、と慧からラインが届いた時、茜はアイスクリームショップにいた。慧の家に泊るのは二度目だ。一度目はなし崩しだったけれど、今回は招かれた立場なのだから手土産を調達しなければ。
カラフルなケースの前に立って、じっくりと吟味する。慧にはオレンジソルベとダイキュリー、自分用にはチョコミントとアールグレイを選んだ。
「ドライアイスは無料だと三十分までですが、大丈夫ですか」
「はい。すぐ近くなので」
駅に戻って慧を待つ。電車の走行音が聞こえる度そわそわした。数本の電車が去った後、改札から出てくる人波の中でたった一人に目がいった。
きっと、どこにいても茜は慧を見つけられる気がする。
「おかえり」
「お待たせ。お、なにそれ」
手にぶら下げていたアイスの箱に目を留める。歩きながら説明すると、「マジか」と目を丸くした。
「じゃ、家に置いてから飯行くか」
そう言われるまで、食事のことをすっかり忘れていた。
何せ緊張していたのだ。昨日、慧が「泊っていくよね」と念押しをするから。その声音で、何を求められているのか分かってしまった。
触れるだけじゃないキスも、背中に腕を回してぎゅっと抱き合いもした。お互いの熱に気付いていたけれど、慧はそれ以上求めてくることはなくて、いつも火照った体のまま家に帰っていた。
でも、今日は違うのだ。
「アイス食いたかったの?」
「手ぶらもなんだし」
「なるほど。今日はありがたく頂くけどさ、次からは良いからね」
「でも」
「絶対週一はうちに来て欲しいし。毎回手土産なんて買ってたら、茜のバイト代全部消えちゃうよ」
向けられる笑顔に、瞳に、茜だけが映っていることに未だ慣れない。
商店街の案内図に人影がないことに喜ぶ自分の心の狭さが気恥ずかしくなったのも、マンションのエントランスに匂いを覚えてしまったことも、全部ここ数週間の出来事だ。知らない感情に出会う度、喜びと不安が一対一で混ざり合う。
アイスだけ預けて外で待っていようと思ったのに、慧は当然のように茜の手を引いてエレベーターに乗った。ダウンライトをつけて、冷凍庫にアイスを仕舞う。箱ごと入れるのは無理で、カップを取り出して引き出しを閉めた。
「やると思った」
もくもくとした白煙に気付いて慧が笑う。
「放っておけば消えるのに」
「好きなんだよね、これ」
ドライアイスが水の中でぶくぶくと泡を立てる。ちょっとした非日常を味わっていると、後ろから抱きすくめられて驚いた。
首筋に慧の鼻が触れる。何を求められているか分かるから、少しだけ顔を横に向けて応えた。
「…お酒飲んできた?」
口腔からほのかに香るライムに尋ねると、慧は「うん」と囁いてまた唇を重ねる。
「分かる?」
「…なんか、柑橘の味する」
「仕事で一杯だけ」
直哉も仕事中に試飲することがあると言っていたから、そういうものなのかと思った。だが、慧は何を察したのか、不満気に口内をまさぐってくる。
「あ、ちょっと──」
下腹部の熱に焦って声をあげると、くるりと向きを変えられて正面から向き合う恰好になる。シンクに後ろ手をついた時、コンロの横がやけに整然としていることに気が付いた。
「…調味料、減ってない?」
「ん?」
視線を辿った慧が、「ああ」と呟く。
「あげた」
「なんで?」
まだ使える物もたくさんあったし、安い代物ではなかったはずだ。
茜の至極まっとうな疑問に対し、慧は苦笑いを浮かべて黙っている。慧には珍しい意味ありげな表情に、茜はある事を思い出した。
初めてこの家に来た時、元カノの物を並べて置くことに苦言を呈した覚えがある。いくつか残っている調味料は、慧自身で買った物、ということだろうか。
「…俺が気にするって言ったから?」
「いや、まーそれもあるけど。正直、持て余してたしね。俺、そこまでマメに料理しないしさ」
「…ごめん」
「なんで謝んの」
「あの時、こういう事になると思ってなかったから。考えなしに話しちゃって…」
「えー、こういう事って?」
揶揄いを含んだ眼差しで覗き込まれ、鼻先をつまんでやる。
「こら」
「手間じゃなかった?」
「全然」
頬に口づけを落とし、髪を撫でる。
「相手が嫌がるって分かってることをあえて放置する理由もないっしょ。全部に対処できるとは言わないけど、出来ることはさせてよ」
末永く付き合っていきたいしね、と纏められて嬉しさがこみ上げる。そんな風に考えてくれていたなんて。
でも、小さじ一杯分ほどの申し訳なさは消え なかった。持て余していた、という言葉は嘘ではないだろうけれど、所有物を手放すよう仕向けたみたいで気が引ける。
「…じゃあ、慧は?」
「ん?」
「こういうのは嫌だっていうの、ある?」
「なくはないけど」
「けど?」
「言いたくない」
「なんで?」
予想外の返事に小首を傾げる。
「年上としての矜持があるから」
「それ、今いる?」
「いるとかいらないじゃなくて、ついて回るもんなの」
「でも、それじゃ知らない間に慧に嫌な思いさせちゃうかもしれないし」
そんなの茜だって嫌だ。
「あー、そうですね…あえていうなら…」
「いうなら?」
「……バー行ったこと、ある?」
「え?」
お酒を飲む、あのバーだろうか。それとも女の子がいる方?
脈絡のない質問としか思えなかったが、慧の顔はいたって真剣だった。
「ないけど」
「よっしゃ」
喜ぶ理由が分からず、薄明りの中で慧を見上げる。
「…自慢じゃないけど、俺、友達少ないよ?」
一応、大学では賑やかなメンバーのグループに属してはいるが、友人と言い切れるかは怪しい。
「友達に多いも少ないもないでしょ、数えるもんでもないんだから」
「バーに行ってほしくないの?」
「違うよ」
じゃあなに、と尋ねる間もなく、上体がしなるほど抱きすくめられる。茜、と耳元でくぐもった声が聞こえた。
「…腹、減ってる?」
「え?」
そろり、とあからさまな手つきで腰が撫でられる。ぶわと頬に熱がこもったところに、耳裏に舌が這わされれば、立っているのもやっとの様相になってしまう。
「お、お腹…」
「減ってる?」
ぎゅっと目を瞑って、減ってない、と上擦った声で答えた。
空腹ごと、緊張が飲み込んでしまったみたいだ。
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