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全く気の晴れない週末を過ごした月曜も、茜は遅刻せずしっかり登校した。基礎教養を落とすと苦労するぞ、と卒業生である兄から口を酸っぱくして言われていたからだ。
一限の基礎物理の終盤から、眠気で後頭部が重かった。アイスコーヒーを片手に凌いだが、二限目の生物情報学は中盤からモニターの文字が霞んで来る。どうしたものかと目をこすっていると、隣の女子がこっそり話かけてきた。
「土日何してたの?」
コーラルピンクをまとった唇の端が、緊張気味に弧を描いている。
淡い好意が滲む言葉に対し、茜はタブレットの端に文字を書いて答えた。
『教授が見てるよ』
彼女が慌てて教壇に目をやった隙に瞼を閉じた。
意識を呼び戻したのは賑やかな笑い声だった。講義室からは人気が消え、窓際で数人が固まって昼食をとっている。
眠気の残る目尻を引っ張って携帯を取り出すと、授業が終わってから十五分ほど経っていた。数分前に届いていたラインを開く。
『声かけたけど起きなかったから先行くね。A棟で席とっておく』
キャンパス内に学食はいくつかあるが、A棟は品数と味の良さから一番混雑する。いくら席を確保してくれても、食券に並ぶ時間、食べる時間、次の教室へ移動する時間を考えると間に合いそうにない。
少し悩んだが、C棟ですませる、と返事を送った。安い、まずい、多いの三拍子そろったカフェテリアはいつも閑散としている。手早く食べるにはもってこいだ。
一人の昼食は寂しいが、ほっとしてる自分がいた。この週末、友人達は山梨の遊園地に出かけていた。茜も誘われていたが、例の家に行かなければならなかったので断ったのだ。
「家の片付け?引っ越すの?」
「俺じゃなくて、親戚。手伝いに行くんだ」
「どこ?海ある?」
「花野井ってとこ。海はないよ」
今頃、友人達は遊園地の話でもちきりだろう。そこに茜が現れたら、お前は何をしていたんだと水を向けられてしまう。
母が死んだのは、高校卒業と大学入学の狭間だった。だから、茜は誰にも話していない。打ち明けるつもりもなかった。
当たり障りのない、疲れたとか、重かったとか、愚痴にならない程度の嘘まじりの話をするのは億劫だった。嘘をつくことに抵抗があるほど潔癖な性格ではないが、バレた時の気まずさを散々味わった後だ。墓穴を掘る真似はしたくない。
外に出ると、梅雨特有のむわっとした湿気が肌を覆う。前髪終わったわー、と明るい髪の女子達が話していた。
「ってかさ、なんで別れたの?夏なのに」
「季節関係ないでしょ、気持ちの問題なんだからさ」
「語るねー」
「ねーカラオケ行こうよ、話聞いて」
何でも話せる人がうらやましいと思う。隠すことがない人。どちらにもなれない茜に、彼女達の笑顔はひどく眩しく感じた。
直哉と慧も同じだ。二人の遠慮のない会話が羨ましかった。色々な事を背負わせてしまった直哉に、気の置けない間柄の友人がいて嬉しいのに、寂しさも混ぜてしまう心の未熟さが情けなくなる。
「茜?」
後方から声を掛けられる。じめっとした心の底が、すこんと抜ける明るい声。
「やっぱ茜だ」
慧が立っていた。人懐っこい笑みであっという間に隣に立ち、楽しそうに顔を覗き込む。
「…なんでいるの?」
あまりの驚きに敬語も忘れて問い返すと、「野暮用」と携帯電話を振る。
「二次会のムービー撮りにきたんだ。ゼミで一緒だった奴が結婚するから」
「ゼミ?」
「経済の五浦ゼミ。俺、ここの卒業生だから」
「あ、へー…」
つまり、兄とは中学だけでなく、大学も一緒だったということか。
「なあ、飯食った?まだ?じゃ、学食行こうぜ」
「え、ちょっと」
茜の戸惑いをよそに、久しぶりだなー、と楽し気に歩き出す。
麻のシャツに、紺色のパンツ。シンプルながら上質な服がよく似合っている。童顔というわけでもないのに、学生の中にいても全く浮いていないのは、溌剌とした雰囲気のためだろうか。
「どこで食う?」
「…C棟」
「え、あそこ美味くなったの?俺がいた時結構やばかったんだけど」
「不味いけど、今から他のとこ行ったら食いっぱぐれちゃうかもだし」
案の定食堂は空いていた。慧はクラブハウスサンドを頼み、茜はすぐ食べ終えられるから揚げうどんの食券を買う。
窓際の席まで横断する間中、女子学生たちの視線を感じた。慧は一向に気にする様子もなく、千切りキャベツが乾燥しているだの、コンソメソープが磯臭いだの笑っている。人から見られることに慣れている、余裕ある姿だった。
まあ、見るよな、と思う。美形だし。
特にはっきりした目元が良いと思う。直哉も端正な顔立ちだが、彫りが深いせいかちょっぴり強面なのだ。その分、慧は親しみやすさがある。二人が並んで歩いていたらかなり目立っただろう。
「大学も一緒だったの?直くんから中学の同級生って聞いてたけど」
うどんに七味をかけ忘れたことに気付いたが、今更戻るのは面倒だった。
「そ。でも、大学一緒だったのは卒業してから知った。学部違うと気付かないもんだよなー」
「…そうなの?」
慧は「相変わらずまずいなあ」と言いながらも、嬉しそうにサンドイッチにかぶりついている。茜のうどんも出汁の風味が一切しないが、最早味なんてどうでもよかった。
友人関係が希薄な茜だって、高校のクラスメイトの進学先くらいは知っている。直哉はああ見えて人付き合いを億劫がらないし、在学中に顔を合わせていれば必ず話題に上がっただろう。
もしかして、大学を卒業するまで疎遠だったとか?
急な思い付きだがしっくりきた。何しろ、あの家で会うまで、直哉から慧の話を聞いたことがなかったのだ。片付けに呼ぶくらい親密な仲なら、話題に上がっていない方が不自然だった。
どういった理由でだろう。慧が留学していたとか?休学?病気だったとか。
「茜って学部どこ?」
「理学部。慧は?」
「俺は経済だよ。理学部か、ちょっと意外だわ」
直接聞けば早いと分かっているが、兄の人間関係を興味本位で探る真似は出来ない。つらつら考えていると、慧の後ろを通り過ぎようとしていた男性が足を止めた。立ち止まった拍子に、身に纏った白衣がふわりと揺れる。
「ここで何してるの、慧」
「千加」
青年は柔和な笑みを浮かべ、慧の隣にトレイを置いた。茜と同じから揚げうどんが乗っている。ただし、しっかりと七味が振りかけてあった。
「お前、いつ戻ったんだよ」
「二か月前くらい。慧は無職になったの?」
「院生様とは無縁の話でしょうけどね、百貨店勤めってのは基本平日休みなんだよ」
「へえ。じゃ、土日は休めないんだ」
「希望休出せば。すみません、つって」
「あはは、面倒くさい」
千加はそこでようやく茜に気付いたようで、申し訳なさそうに眉根を下げた。
「ごめんね、お邪魔だった?」
「いいえ、全然」
慌てて首を横に振ると、箸を割りながら「一年かな?」と穏やかに尋ねてくる。誰にでも好かれる笑みと言うのはこういうものなのだろうか。
「二年です」
「へえ。慧、何繋がり?サークルの後輩とか?」
「まーそんなとこ。ってか、お前よく研究対象を食えるよな」
「相変わらず短絡的だね。研究対象だからこそ食べるんだよ」
繊細そうな外見に反し、豪快にから揚げにかぶりつく。
「じゃ、昆虫研究してたら食うわけ?」
「慧って昔カブトムシ飼ってたよね。渋谷に昆虫が食べられる店があるんだけど、一緒に行く?」
「行かねえよ」
話に入ることもせず、茜は黙々とうどんを咀嚼した。兄と慧の疑問は残ったままだが、尋ねる時機を逃してしまったようだ。
「そういえば、月森のお母さん、亡くなったんだって?」
箸からうどんが零れそうになった。
茜は千加と面識はない。それなのにどうして、と横目に伺うと、千加の目は慧だけに向けられていた。茜に話しかけたわけではないようだ。
「なんだよ、急に」
「留学行ってた間、郵便物実家に届くようにしてたんだ。引き取りに行ったら、昨年末に喪中はがきが届いてた」
「お前たち、年賀状のやりとりするような仲だったの?」
「皆でお葬式とか行った?」
「家族葬だったから」
二人の会話を聞く内、次第に事情が飲み込めてきた。千加も慧と同じ、兄とは中学の同級生の間柄らしい。
ほっとしたような、却って居心地が悪くなったような、まぜこぜの気持ちのまま最後の一本をすする。
箸を置くと同時に卓上の携帯が振動する。実験班のグループラインだった。白衣を忘れたメンバーがいるらしい。
「亡くなったの、どっち?」
「義理のお母さんの方」
「そっか。なら、良かった」
画面に触れる指が一瞬止まった。
千加と目が合う。上品な笑みを口元に残したまま、なあに?というように小首を傾げてみせた。
良かった──友人として、千加の言葉は正しい。亡くなったのが茜の母で良かった。実の母なら、直哉は悲しんだろうから。
悪意はない。千加は茜が直哉の弟だということも、亡くなったのが茜の母だということも知らずに話しているのだ。聞き流せばよい。知らんふりをしていれば終わる話なのだから。
でも、耳奥に氷の欠片が転がされたような感覚が消えなかった。
良かった。良かった──母さんが死んで、良かった。
「良くはないだろ」
すっと慧の声が耳に入って来る。
「人が亡くなってるんだから、良いわけない」
声を荒げたわけではない、けれど、はっきりとした批難を込めた言い方だった。
携帯の画面を見つめたまま、顔を伏せてその声を反芻する。慧の言葉の熱に触れて、氷の欠片がじわりと形をなくしていく。
「そうだね」
千加は紙ナプキンで口元を拭きながら、あっさり同意する。
「じゃあ、お先に。お邪魔しました」
後半は茜に向けて言い、ひらりと白衣を翻して帰っていく。こちらを見ていた女子学生の集団から一人立ち上がり、「チカちゃん先輩」と弾んだ声で駆け寄っていった。
慧はその声に反応することもなく、付け合わせのフライドポテトにすすめた。
「怪我の具合、どう?」
「…平気」
「そればっかりだな」
返事に迷って、冷めたポテトを齧る。
「ありがと」
「ここ、フライドポテトだけはそれなりだよな」
「そうじゃなくて。…直くんと母さんのこと、知ってるんだよね」
「質問が曖昧で答えにくいな」
「仲が悪かった、ってこと」
慧はポテトをケチャップに浸しながら「うん」と言った。
「でも、なんでかとかそういうのは知らない。あいつも喋んないし」
「さっきの人…千加さんも?」
「あー。あいつも中学からの付き合いではあるけど、あんな性格だし。仲悪かったってことを知っててあの発言ってよりも、ただ単に直哉のお母さんと面識あるからああ言っただけだと思う」
「そっか」
慧は千加の言葉を詫びなかった。それが逆に有り難い。
「思春期に継母と暮らし始めて、上手くいく方がレアでしょ。茜だって直哉の親父さんと気まずい時ない?」
「俺はまだ小さかったから、あんまり抵抗なかったかな。実の父親の顔も知らないし」
「成程」
「直くんのお母さんと俺の母さん、タイプも全然違ったみたいだし、そもそも性格的に合わなかったみたいで」
こっちは不倫だし、とポテトにかかった塩程度のニュアンスで付け加える。
「性格的に合わないって、どのレベルで?」
「ほぼ喋ってなかった。母さんが直くんが嫌がるようなこと、わざと言ったりするから仕方ないんだけど」
「え、どんな」
「直くんのお母さんの話題出したり、父さんと付き合ってた頃の話したり」
「そっちかー」
誤魔化しや嘘を交えずに家族の話をするのは初めてだった。慧は苦笑いを浮かべるものの、誰のことも否定せず、一つの話題に強い関心を示すこともない。好奇心や下世話な興味はないと分かるから、気兼ねなくいられた。
「直とお母さんがそんな感じで、茜はどうしてたの?」
「直くんに相手して貰ってた」
「お母さんじゃなくて?」
「母さんは父さんにべったりだったから」
徐々に人が席を立ち始める。茜の携帯からもタイマーが鳴り始めた。
「あ、もうこんな時間か」
慧が腕時計を見て呟く。
「理学部本館、行ったことないんだよね。一緒に授業聞いてみよっかな」
「実験だから部外者だってすぐばれるよ」
慧は「残念だな」と笑い、学食を出ると軽やかに手を上げた。
「じゃあな、茜。また」
「…うん」
夏光りの中立ち去る体の輪郭が、淡く輝いている。
背中を見送りながら目の下を拭ってみた。慧が溶かした氷が流れ出ていなくて、安心する。
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