【1】泣かない子供

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 全く気の晴れない週末を過ごした月曜も、茜は遅刻せずしっかり登校した。基礎教養を落とすと苦労するぞ、と卒業生である兄から口を酸っぱくして言われていたからだ。  一限の基礎物理の終盤から、眠気で後頭部が重かった。アイスコーヒーを片手に凌いだが、二限目の生物情報学は中盤からモニターの文字が霞んで来る。どうしたものかと目をこすっていると、隣の女子がこっそり話かけてきた。 「土日何してたの?」  コーラルピンクをまとった唇の端が、緊張気味に弧を描いている。  淡い好意が滲む言葉に対し、茜はタブレットの端に文字を書いて答えた。 『教授が見てるよ』  彼女が慌てて教壇に目をやった隙に瞼を閉じた。  意識を呼び戻したのは賑やかな笑い声だった。講義室からは人気が消え、窓際で数人が固まって昼食をとっている。  眠気の残る目尻を引っ張って携帯を取り出すと、授業が終わってから十五分ほど経っていた。数分前に届いていたラインを開く。 『声かけたけど起きなかったから先行くね。A棟で席とっておく』  キャンパス内に学食はいくつかあるが、A棟は品数と味の良さから一番混雑する。いくら席を確保してくれても、食券に並ぶ時間、食べる時間、次の教室へ移動する時間を考えると間に合いそうにない。  少し悩んだが、C棟ですませる、と返事を送った。安い、まずい、多いの三拍子そろったカフェテリアはいつも閑散としている。手早く食べるにはもってこいだ。  一人の昼食は寂しいが、ほっとしてる自分がいた。この週末、友人達は山梨の遊園地に出かけていた。茜も誘われていたが、例の家に行かなければならなかったので断ったのだ。 「家の片付け?引っ越すの?」 「俺じゃなくて、親戚。手伝いに行くんだ」 「どこ?海ある?」 「花野井ってとこ。海はないよ」  今頃、友人達は遊園地の話でもちきりだろう。そこに茜が現れたら、お前は何をしていたんだと水を向けられてしまう。  母が死んだのは、高校卒業と大学入学の狭間だった。だから、茜は誰にも話していない。打ち明けるつもりもなかった。  当たり障りのない、疲れたとか、重かったとか、愚痴にならない程度の嘘まじりの話をするのは億劫だった。嘘をつくことに抵抗があるほど潔癖な性格ではないが、バレた時の気まずさを散々味わった後だ。墓穴を掘る真似はしたくない。  外に出ると、梅雨特有のむわっとした湿気が肌を覆う。前髪終わったわー、と明るい髪の女子達が話していた。 「ってかさ、なんで別れたの?夏なのに」 「季節関係ないでしょ、気持ちの問題なんだからさ」 「語るねー」 「ねーカラオケ行こうよ、話聞いて」  何でも話せる人がうらやましいと思う。隠すことがない人。どちらにもなれない茜に、彼女達の笑顔はひどく眩しく感じた。  直哉と慧も同じだ。二人の遠慮のない会話が羨ましかった。色々な事を背負わせてしまった直哉に、気の置けない間柄の友人がいて嬉しいのに、寂しさも混ぜてしまう心の未熟さが情けなくなる。 「茜?」  後方から声を掛けられる。じめっとした心の底が、すこんと抜ける明るい声。 「やっぱ茜だ」  慧が立っていた。人懐っこい笑みであっという間に隣に立ち、楽しそうに顔を覗き込む。 「…なんでいるの?」  あまりの驚きに敬語も忘れて問い返すと、「野暮用」と携帯電話を振る。 「二次会のムービー撮りにきたんだ。ゼミで一緒だった奴が結婚するから」 「ゼミ?」 「経済の五浦ゼミ。俺、ここの卒業生だから」 「あ、へー…」  つまり、兄とは中学だけでなく、大学も一緒だったということか。 「なあ、飯食った?まだ?じゃ、学食行こうぜ」 「え、ちょっと」  茜の戸惑いをよそに、久しぶりだなー、と楽し気に歩き出す。  麻のシャツに、紺色のパンツ。シンプルながら上質な服がよく似合っている。童顔というわけでもないのに、学生の中にいても全く浮いていないのは、溌剌とした雰囲気のためだろうか。 「どこで食う?」 「…C棟」 「え、あそこ美味くなったの?俺がいた時結構やばかったんだけど」 「不味いけど、今から他のとこ行ったら食いっぱぐれちゃうかもだし」  案の定食堂は空いていた。慧はクラブハウスサンドを頼み、茜はすぐ食べ終えられるから揚げうどんの食券を買う。  窓際の席まで横断する間中、女子学生たちの視線を感じた。慧は一向に気にする様子もなく、千切りキャベツが乾燥しているだの、コンソメソープが磯臭いだの笑っている。人から見られることに慣れている、余裕ある姿だった。  まあ、見るよな、と思う。美形だし。  特にはっきりした目元が良いと思う。直哉も端正な顔立ちだが、彫りが深いせいかちょっぴり強面なのだ。その分、慧は親しみやすさがある。二人が並んで歩いていたらかなり目立っただろう。 「大学も一緒だったの?直くんから中学の同級生って聞いてたけど」  うどんに七味をかけ忘れたことに気付いたが、今更戻るのは面倒だった。 「そ。でも、大学一緒だったのは卒業してから知った。学部違うと気付かないもんだよなー」 「…そうなの?」  慧は「相変わらずまずいなあ」と言いながらも、嬉しそうにサンドイッチにかぶりついている。茜のうどんも出汁の風味が一切しないが、最早味なんてどうでもよかった。  友人関係が希薄な茜だって、高校のクラスメイトの進学先くらいは知っている。直哉はああ見えて人付き合いを億劫がらないし、在学中に顔を合わせていれば必ず話題に上がっただろう。  もしかして、大学を卒業するまで疎遠だったとか?  急な思い付きだがしっくりきた。何しろ、あの家で会うまで、直哉から慧の話を聞いたことがなかったのだ。片付けに呼ぶくらい親密な仲なら、話題に上がっていない方が不自然だった。  どういった理由でだろう。慧が留学していたとか?休学?病気だったとか。 「茜って学部どこ?」 「理学部。慧は?」 「俺は経済だよ。理学部か、ちょっと意外だわ」  直接聞けば早いと分かっているが、兄の人間関係を興味本位で探る真似は出来ない。つらつら考えていると、慧の後ろを通り過ぎようとしていた男性が足を止めた。立ち止まった拍子に、身に纏った白衣がふわりと揺れる。 「ここで何してるの、慧」 「千加(ちか)」  青年は柔和な笑みを浮かべ、慧の隣にトレイを置いた。茜と同じから揚げうどんが乗っている。ただし、しっかりと七味が振りかけてあった。 「お前、いつ戻ったんだよ」 「二か月前くらい。慧は無職になったの?」 「院生様とは無縁の話でしょうけどね、百貨店勤めってのは基本平日休みなんだよ」 「へえ。じゃ、土日は休めないんだ」 「希望休出せば。すみません、つって」 「あはは、面倒くさい」  千加はそこでようやく茜に気付いたようで、申し訳なさそうに眉根を下げた。 「ごめんね、お邪魔だった?」 「いいえ、全然」  慌てて首を横に振ると、箸を割りながら「一年かな?」と穏やかに尋ねてくる。誰にでも好かれる笑みと言うのはこういうものなのだろうか。 「二年です」 「へえ。慧、何繋がり?サークルの後輩とか?」 「まーそんなとこ。ってか、お前よく研究対象を食えるよな」 「相変わらず短絡的だね。研究対象だからこそ食べるんだよ」  繊細そうな外見に反し、豪快にから揚げにかぶりつく。 「じゃ、昆虫研究してたら食うわけ?」 「慧って昔カブトムシ飼ってたよね。渋谷に昆虫が食べられる店があるんだけど、一緒に行く?」 「行かねえよ」  話に入ることもせず、茜は黙々とうどんを咀嚼した。兄と慧の疑問は残ったままだが、尋ねる時機を逃してしまったようだ。 「そういえば、月森のお母さん、亡くなったんだって?」  箸からうどんが零れそうになった。  茜は千加と面識はない。それなのにどうして、と横目に伺うと、千加の目は慧だけに向けられていた。茜に話しかけたわけではないようだ。 「なんだよ、急に」 「留学行ってた間、郵便物実家に届くようにしてたんだ。引き取りに行ったら、昨年末に喪中はがきが届いてた」 「お前たち、年賀状のやりとりするような仲だったの?」 「皆でお葬式とか行った?」 「家族葬だったから」  二人の会話を聞く内、次第に事情が飲み込めてきた。千加も慧と同じ、兄とは中学の同級生の間柄らしい。  ほっとしたような、却って居心地が悪くなったような、まぜこぜの気持ちのまま最後の一本をすする。  箸を置くと同時に卓上の携帯が振動する。実験班のグループラインだった。白衣を忘れたメンバーがいるらしい。 「亡くなったの、どっち?」 「義理のお母さんの方」 「そっか。なら、良かった」  画面に触れる指が一瞬止まった。  千加と目が合う。上品な笑みを口元に残したまま、なあに?というように小首を傾げてみせた。  良かった──友人として、千加の言葉は正しい。亡くなったのが茜の母で良かった。実の母なら、直哉は悲しんだろうから。  悪意はない。千加は茜が直哉の弟だということも、亡くなったのが茜の母だということも知らずに話しているのだ。聞き流せばよい。知らんふりをしていれば終わる話なのだから。  でも、耳奥に氷の欠片が転がされたような感覚が消えなかった。  良かった。良かった──母さんが死んで、良かった。 「良くはないだろ」  すっと慧の声が耳に入って来る。 「人が亡くなってるんだから、良いわけない」  声を荒げたわけではない、けれど、はっきりとした批難を込めた言い方だった。  携帯の画面を見つめたまま、顔を伏せてその声を反芻する。慧の言葉の熱に触れて、氷の欠片がじわりと形をなくしていく。 「そうだね」  千加は紙ナプキンで口元を拭きながら、あっさり同意する。 「じゃあ、お先に。お邪魔しました」  後半は茜に向けて言い、ひらりと白衣を翻して帰っていく。こちらを見ていた女子学生の集団から一人立ち上がり、「チカちゃん先輩」と弾んだ声で駆け寄っていった。  慧はその声に反応することもなく、付け合わせのフライドポテトにすすめた。 「怪我の具合、どう?」 「…平気」 「そればっかりだな」  返事に迷って、冷めたポテトを齧る。 「ありがと」 「ここ、フライドポテトだけはそれなりだよな」 「そうじゃなくて。…直くんと母さんのこと、知ってるんだよね」 「質問が曖昧で答えにくいな」 「仲が悪かった、ってこと」  慧はポテトをケチャップに浸しながら「うん」と言った。 「でも、なんでかとかそういうのは知らない。あいつも喋んないし」 「さっきの人…千加さんも?」 「あー。あいつも中学からの付き合いではあるけど、あんな性格だし。仲悪かったってことを知っててあの発言ってよりも、ただ単に直哉のお母さんと面識あるからああ言っただけだと思う」 「そっか」  慧は千加の言葉を詫びなかった。それが逆に有り難い。 「思春期に継母と暮らし始めて、上手くいく方がレアでしょ。茜だって直哉の親父さんと気まずい時ない?」 「俺はまだ小さかったから、あんまり抵抗なかったかな。実の父親の顔も知らないし」 「成程」 「直くんのお母さんと俺の母さん、タイプも全然違ったみたいだし、そもそも性格的に合わなかったみたいで」  こっちは不倫だし、とポテトにかかった塩程度のニュアンスで付け加える。 「性格的に合わないって、どのレベルで?」 「ほぼ喋ってなかった。母さんが直くんが嫌がるようなこと、わざと言ったりするから仕方ないんだけど」 「え、どんな」 「直くんのお母さんの話題出したり、父さんと付き合ってた頃の話したり」 「そっちかー」  誤魔化しや嘘を交えずに家族の話をするのは初めてだった。慧は苦笑いを浮かべるものの、誰のことも否定せず、一つの話題に強い関心を示すこともない。好奇心や下世話な興味はないと分かるから、気兼ねなくいられた。 「直とお母さんがそんな感じで、茜はどうしてたの?」 「直くんに相手して貰ってた」 「お母さんじゃなくて?」 「母さんは父さんにべったりだったから」  徐々に人が席を立ち始める。茜の携帯からもタイマーが鳴り始めた。 「あ、もうこんな時間か」   慧が腕時計を見て呟く。 「理学部本館、行ったことないんだよね。一緒に授業聞いてみよっかな」 「実験だから部外者だってすぐばれるよ」  慧は「残念だな」と笑い、学食を出ると軽やかに手を上げた。 「じゃあな、茜。また」 「…うん」  夏光りの中立ち去る体の輪郭が、淡く輝いている。  背中を見送りながら目の下を拭ってみた。慧が溶かした氷が流れ出ていなくて、安心する。
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