【1】泣かない子供

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 その二週間後、母と暮らした家でまた慧と向き合っていた。 「茜に見てほしい映画があるんだけど」  食器を梱包材にたてかけながら言う。 「アクション系?」 「ペンギン系」 「なにそれ」 「昔々あるところに、大勢の仲間と暮らしてるルルっていうペンギンがいたんだけど、氷河が割れて一羽だけ南の島に流されちゃうわけ。南の島は良い所で、友達を作ったり冒険したり楽しく過ごしてはいるんだけど、やっぱりルルは南極に帰りたい」 「うん」 「ある日、島に鯨の群れが立ち寄るんだ。島には綺麗な鳥がたくさんいて、そいつらは鯨たちの頭上で一曲歌う。気に入られると、鯨はその鳥を背中に乗せてどこへでも連れて行ってくれる」 「ふーん」 「ルルは南極に連れて行ってくれって歌うんだけど、下手で断られちゃうわけ。で、歌を練習する。選曲が良いんだよ、サラ・バレリスとか、ニール・ヤングとか」 「子供向け?」  どうにも牧歌的だ。 「二十五歳の俺が見てるんだぞ。ルルは仲間に励まされながら歌を練習して、最後はその歌声に聞きほれた鯨たちが背中に乗せてくれる。無事故郷に帰れました、めでたしめでたし」 「ネタバレじゃん!」  シルクのスカーフを放り投げて叫ぶ。 「南十字星の下で歌うシーンとかガチ泣きだから。というわけで」  差し出されたスマホを押し返す。 「見ない。ネタバレされたし」 「分かってても泣けるよ~」 「やだ。オチ分かってて見ても楽しくない」  それから数回押し問答を繰り返した後、やっと諦めてくれた。 「一緒に見たかったのになー」  茜より五歳も年上なのに、唇を尖らせる拗ね方は子供みたいだ。  でも、鬱陶しさは感じなかった。拙万華鏡のようにくるくると印象が変わるから、見ていて飽きないのだ。 「ってか、前より急に物無くなってない?」  リビングを見渡しながら慧が言う。 「先週の土日、泊まり込みで片付けたから」 「マジ?一人で?誘えよな」 「いや、直くんもだけど」  どの品物に触れるのも不愉快といった様子で、ただひたすら「いらない」ボックスに物を入れていく姿はロボットのようだった。それなのに、茜一人に仕事を押し付けないのが直哉らしい。 「これ、どうするの?」  積み上げられた段ボールを見上げて慧が言う。 「売れるやつは業者さんに引き取って貰う」 「売れなかったやつは?」 「寄付したり、処分したり」 「手元に残すものはないんだ」 「元々使ってなかったものだし、うち、女の人いないから」 「そっか。じゃ、丁度良いかな」  慧はそう言って、トートバッグから一冊の本を取り出した。 「はいこれ。あげる」  海外のファッション雑誌だった。金髪をオールバッグにしたモデルが、光沢のある素材のロングコートを堂々と着こなしている。 「これ、どうしたの?」  どう見ても、茜向けの品物ではない。 「婦人服の担当だった時に勉強用に買ったやつ。茜の母さん、そのシーズンのコレクション好きだったじゃないかな」  パラパラとめくるとシックな色彩の洋服が並んでいた。確かに、母のクローゼットで吊るされていた服と似ている気がする。 「服とか鞄とか、雰囲気似てると思うんだよね。デザイン系が好きだったのかな。ファッション業界にいた人?」 「全然。でも、学校はそっち系だったみたい」  誤魔化したわけではなく、本当に知らなかった。母は昔の話をしなかったし、写真の類も見たことはない。  母が話すのは常に未来のことだった。どんな家に住みたい、こんな人と結婚したい。その夢を、叶えたのだと思う。東京の閑静な住宅街、両親が亡くなっている男の人。  相手に家庭があっても母は気にしなかったのだろう。茜より五歳上の男の子と、三歳上の女の子がいても、自分には関係ないと言い切る、そういう人だった。 「ま、親のことなんてそんな知らないよね。でさ、せっかくだしこの本お供えしても良い?」  驚きのあまり、返事が出来なかった。 「どしたの」 「……ううん、なんでも」  母のことを思って行動してくれる人が、この世にいると思わなかっただけだ。  冷静になれ、と言い聞かせる。母さんがどういう人か知らないから、親切にしてくれるだけだ。 「お墓って東京?」 「北海道」 「遠いなー。なんで?」  墓前に行くつもりだったのか、とさらに気持ちが乱れる。 「出身、そっちだから」  戸籍謄本を見るまで、茜も知らなかったことだ。母は北海道の東部出身で、両親はすでに亡くなっていた。母の遺骨は、駅からほど近い集合墓地に眠っている。 「よし。じゃ、高いとこに置こう」 「なんで?」  慧は当たり前のように言った。 「その方が天国に近いでしょ」  母が天国にいるとは考えにくかったが、慧は疑ってもいないようだ。「どこにしよっかなー」とリビングをぐるぐる歩き、場所を見繕い始める。  慧が目を付けたのは梁の上だった。台所との間、三叉路のように交差している場所だ。 「茜、ちょっと手伝って」 「なに?」  段ボールに蓋をしながら立ち上がると、「ここに立ってて」と立ち位置を指定してくる。ちょうど慧の目の前だ。 「これ持ってて」 「ん」 「はい、いくよー」 「え!?」  雑誌を渡され、腰に触れたと思った瞬間、ひょいと抱え上げられる。 「なになになに!」 「暴れるなって。ほら、両手ばんざいしてそこに雑誌立てかけて」 「脚立でも持ってきなよ!」 「茜抱える方が早いじゃん。ってか、お前腰細すぎ。飯食ってる?」  骨ばった両指のありかをまざまざと理解させるような手つきに、宙ぶらりんの足をばたつかせる。  くすぐったさと恥ずかしさでどうにかなりそうだなのに、慧は目的を完遂するまで茜を下すつもりはないらしく、「早く早く」と急き立てている。 「いくらお前が軽くてもそれなりにダメージはあるんだから」 「勝手すぎ!」  こんな風に誰かに抱き上げられた記憶なんてなかった。いつもより三十センチほど高い視界、地面から離れた足先の不安定さに心臓が早鐘を打つ。  羞恥は消えないが、慧の意思は固そうだ。一刻も早く解放される方がましと思い、梁の上を覗き込んだ。 「ん?」  雑誌を置こうと思った場所には、風呂敷に包まれた長方形の板が置かれている。 「茜~」 「あ、ごめん」  恨めし気な声に板と雑誌を入れ替えて「出来た」と声をかける。慧は茜を下すと疲れを取るように両腕を振り回した。自分で勝手に持ち上げたくせに。 「それなに?」 「あそこに置いてあった」  長方形の板はひどく軽い。赤らんだ頬を見られないように、背中を向けたまま風呂敷を解くと、中から現れたのは神札だった。  神社の名前に覚えがあるような気がするが思い出せない。  引っ掛かりを覚えて携帯で検索すると、長野県の神社がヒットした。 (──あ)  神主の苗字を見て、足先がすっと冷たくなる。 「神札かー。神棚代わりにあそこに置いてたのかね…っておい」  躊躇なく処分用の段ボールに放り込む姿に、慧が注意めいた声を上げる。 「こらこら、お札は駄目だろ」 「触んな!」  慧がお札に触れた瞬間、自分でも驚くくらい大きな声が出た。 「茜?」  慧が目を見張る。  落ち着け、落ち着かなきゃ。胸の内をなだめようと言い聞かせても、さっきまで自分に触れていた指を見て腹の奥が熱くなる。  触らないで欲しい。母さんのために、何かしようと思ってくれる人には、何も知らないままでいて欲しい。 「あのな、こーゆー札は神社で回収してくれんの。お祓いとか色々あるんだから…あーもう」  それ以上何も言われたくなくて、半ば奪い返すように受け取って背を向けた。  短いため息が聞こえる。 「前々から思ってたんだけど」 「じゃあ黙ってて」 「嫌だ、言う。お母さんの遺品で、とっておきたい物ってないの?」  うるさい、うるさい。  慧には見られたくなかった。慧だけには。胸の内で誰ともつかない薄暗い影に向かってなじる。  なんでこんな場所に置いておくんだよ。なんで今なんだ。 「茜」 「ないよ」  壁に立てかけられた紙袋を、中身も見ずに段ボールに突っ込んだ。陶器がぶつかり合い、耳障りな音が響く。  もうどうだって良かった。 「一個もない。全部いらない」 「本当に?」 「いるわけないじゃん」  掴まれた手首を振り切るように払う。変な方向に動かしたせいか、先日江間の母に叩かれた二の腕がずきりと痛んだ。   ──どの面下げて、この、疫病神! 「直くんから何も聞いてないの?」 「俺はお前と話してるんだけど」 「俺から話すことでもないし」 「じゃあ直から聞く話でもないだろ」  宥めるような声が癇に障った。  何も知らないくせに。  当たり前だ、茜は話していない。話せない。  何もかも打ち明ければ終わる話なのだろうか。そうしたら、慧も余計な口出しをしなくなる、けれど。 ──亡くなったの、どっち? ──義理のお母さんの方。 ──そっか。なら、良かった。  知ったら、千加の言葉に対して、同じ声で咎めてはくれないだろう。別にあの言葉が茜にとって何か意味を持っていたわけではないけれど、ただ、嫌だと思った。  千加の穏やかな微笑み。死んだのが茜の母で良かった。他人のふりで話を聞き流した自分と、指先に残ったフライドポテトの塩の欠片。  爪の間の鈍い痛みが気になり、実験の合間、顕微鏡で観察した。なんてことはない、塩の小さな結晶が爪の間に入りこんでいるだけだった。こんな微細な粒が痛みをもたらしていたことが不思議で、しばらくの間ミクロの世界から目が離せなかった。  母も同じだ。  ただの小さな結晶。顕微鏡で覗かなければどんな形かもわからないのに、関わった人を痛めつける存在。 「外行ってくる」  わざわざ口にしたのは、黙って出て行く惨めさに耐えられなかったからだ。
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