【1】泣かない子供

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 梅雨の終わり時を迷うかのように、鼠色の雲と晴れの日が交互に続いている。今日は曇りだった。つつけば今にも降り出しそうな湿った匂いが満ちる中、小道を歩く。  向かい側には一面羊草に覆われた池が見えた。欅が並ぶ大通りに出て、小一時間程歩けば駅のはずだ。本数は少ないが、品川まで直通の電車が走っている。  また慧と顔を合わせるくらいなら、このまま東京へ帰ろうと思った。携帯と財布はあるし、直哉には適当な言い訳をすれば良い。  けれど、十五分ほど歩いた時点で、茜は物陰に隠れざるを得なかった。  江間の母親が古いバス停のベンチに座っているのだ。しかも、今日も杖を携えている。  どうしよう。  飛び出し注意の看板の裏でため息を零す。顔を隠すものを探してポケットをあさったが、何も入っていなかった。  似てるって言われたこと、ないんだけどな。携帯のインカメに映った自分の顔は不満げにむくれている。  顔立ちを褒められるのは苦手だった。アーモンド型の目も、細い鼻筋も、母ではなく、別の人から譲り受けたものだったから。  チャリン、と金属音が響いた後、女性のくぐもった声が聞こえた。様子を伺うと、老女が窮屈そうに腕を伸ばしている。どうやらベンチの下に落とし物をしたらしく、顔をしかめながら、腕を伸ばしたり引っ込めたりしている。  手伝ってあげなきゃ。あのまま前に傾いて、ベンチごと倒れたら怪我をしてしまう。自力で起き上がれないまま、何時間も経ったら大事だ。  頭では分かっているのに動けなかった。杖を渡して、その後は?また襲い掛かられたらどうしよう。  ぶたれた箇所の炎症はなかなか収まらず、結局病院に行った。もう少し強い衝撃が加わったら骨にひびが入ったかも、という医師の言葉が二の足を踏ませる。  看板の鉄さびを眺めながら、一人で対処できる方法を思案した。  例えば、慧だったら。  慧は人が困っているなら迷わず駆けつけるだろう。ぶたれても、「いて」と顔をしかめ、相手が無事なことに安堵する表情まで容易く思い浮かぶ。  直哉と母の関係を知っていても、慧は母へと雑誌を持参して、遺品の行く先を気に掛ける。もし茜が慧だったら、そんなことは出来ない。無意識の内に、直哉が母のどこを嫌いか考えて、自分なりの結論を出して終わり。同調はしない分、親切にもしない。  変わった人だよな、と思う。希望を出さなければ土日だって休めないと言っていた。それなのにわざわざこんな田舎に来て、遺品整理の手伝いをするなんて。  もう少し良い時間の使い方をして欲しい。いかにもモテそうだし、デートの相手なんていくらでもいるだろう。  そう思った瞬間、胸が痛んだ。慌ててTシャツの上から心臓を叩く。  駄目だ。慧はきっと「違う」。こんな風に考えたら駄目だ。  時々失礼だし、強引な部分もある。でも、底抜けに親切で、その行動の源が茜には分からない。  分からないものと対峙するのは怖い。だから、慧といると心がぐらぐらするだけだ。  その言葉にどう返せば良いの?何を訊きたいの?焦りが不安になって、逃げたくなって、知られたくなくて──腹が立った。  自分の器の小ささが起因して八つ当たりするなんて最悪だ。謝らなきゃ。  でも、謝ったその先を想像すると怖かった。それで、その神札はなに?なんて答えよう。結局嘘をつくしかないのだろうか。やっと誤魔化さず話せる人に会えたのに?  道の向こうから車が入って来た。居住まいを正そうと前髪を整えていると、見知った車種だと気付く。  カーキ色のアウディは徐々に速度を落とし、茜の横で止まった。するすると運転席の窓が下りていく。 「何やってる、こんなとこで」 「…散歩」  ぽつり、とつむじに雨が当たる。  直哉に促されるまま助手席に乗った。江間が気になってサイドミラーで確認すると、傘を携えた女性の後ろ姿が見えた。きっと聡子だろう。  視線を感じて右を向くと、兄がハンドルに両腕をもたれかけて見つめていた。 「一人で出歩くな。また怪我したらどうする」  追い越しざま、しっかりと江間の存在に気付いてたらしい。元々鋭い目つきがさらに険を帯びていて、茜は咄嗟に話題を変えた。 「慧とこの前、大学で会ったんだけど」  雨が強くなってきた。ワイパーが忙しなく左右に動き始める。直哉はウィンカーを上げて発車する。 「直くん、大学も一緒だったんだね」 「ああ。学部は違ったけどな」  さらりと返される。隙がなく、それ以上言及はできなかった。 「仲良くなったきっかけって何だったの?」 「中学で部活が一緒だった」 「なんの部活?」 「水泳。大会で被ってたから、知り合ったのはもっと前だけど」  電子煙草を咥える横顔は静かで、慧の話題に不快な様子はない。  直哉と慧の空白が何をきっかけに生まれたのか、知りたいと思った。それを経てもなお、兄が最も他人に触れさせたくない母の家に呼んだのか尋ねてみたい。 「…あのさ」  雨粒を目で追いながら言葉を探す。  どうして慧を呼んだの?そう切り出せば良いだけなのに、喉の奥がぎゅっと狭まってしまう。  車内に漂う僅かな緊張感を、直哉も、茜も感じている。  家族になって十年が経つ。直哉は茜の面倒をよく見てくれた。邪見にされた覚えはないし、母の代わりに学校行事にも顔を出してくれた。  過ごした時間の長さに比例して縮まった距離が、徐々に開き始めたのはいつからだろう。何を話しても兄を傷付ける気がして、口を噤むようになったのは。  ろくに会話もないまま家に着いてしまった。言葉を探す内、直哉が先に運転席を降りてしまう。 「茜、傘」  玄関までの数歩の距離すら気遣ってくれる兄の優しさを疑ったことはない。母が茜を傷つけないよう守ってくれたこと、父と茜の間に出来た溝を埋めようとしていることも全て知っている。  だから聞けなかった。  いつか、慧にお母さんのことを全て話すの?  俺と二人でいるのが気まずいから慧を呼んだの? 「茜?」  傘を差した直哉が、窓の外から声をかける。訊くなら今だ、と思ったのに、自分のための傘を見た途端勇気は萎んでしまった。  傘を受け取って歩く。ありがとう、と言うのがやっとだったけれど、兄に聞こえていたかは分からない。 「傘、俺が仕舞っとくね」  慧と顔を合わせるのを少しでも遅らせたくて、雨粒を払いながら時間を潰した。リビングからは直哉と慧の賑やかな声が聞こえてくる。 「昼飯は?…またコンビニかい!」 「文句があるなら職場のお高い総菜でも持参してこい」 「肉体労働命じるなら飯で釣るのが基本だろ。あっジャンプもねーし!」 「今日土曜だろ」 「月曜が赤日だから今日発売なんですー。お、茜もお帰り」  予想に違わず、慧は明るい笑顔で接してくる。同じように振舞えたらどんなに良いだろう。 「あれ、ほっぺ濡れてるじゃん、泣いてた?」 「雨にちょっと濡れただけ」  視線を伏せたままコンビニの袋を受け取る。 「なあ、次いつ片付けしに来んの?」 「もう来ない。さっき不動産屋に行って、引き渡しの日取り決めて来たから」 「えっマジで!?じゃあお疲れ会しよーぜ」  茜が一言も返さずとも話は続いていく。リビングの隅っこを陣取って、サンドイッチにかぶりついた。  三人で集まるの、今日で最後だったんだ。  あんな言い方しなきゃよかった。後悔を口にすることも、直哉と慧の空気に入っていくことも出来ず、レタスを齧り続ける。  雨はその日中止むことはなかった。六時過ぎ、最後の段ボールに封をする。 「そういえば、保留の箱は?」 「いらない方にいれた」 「おいおい」 「いるかいらないかの二択だろ。中間を作るな」 「お前の人生はそうかもしれないけど、大抵の人間には中間があるんだよ。な、茜?」  伝票の記入に集中していて聞こえないふりをした。 「お疲れ会どこでする?茜って何が好きかな」 「西瓜」 「西瓜パーティーかー。それも悪くないけど」  その代わり、直哉に茜のことを尋ねている。茜のことは茜に尋ねる、って言ってたくせに。  兄がなんて返事したのかは分からない。雨音が強くなったことに気を取られていたから。あえて聞こえないふりをしていたから。
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