【2】思い出

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【2】思い出

 夏休みの間、茜は大学近くに借りているマンションではなく、三鷹の実家で過ごすことになった。父が広島の子会社の取締役に就任することが決まり、住む人がいなくなる為だ。  無人の家は傷みが早い。父は直哉に戻るよう言ったらしいが、「通勤が面倒」と断られ、茜にその役割が回って来た。  母との再婚を機に──つまり、直哉の母との離婚を機に──買った家は、花野井と比べようもなく立派だ。瀟洒な門構えも、整えられた庭も茜には不相応な気がして、荷物を下ろして早々、狭い一人暮らしのワンルームが恋しくなる。  進学と同時に家を出ることを勧めたのは直哉だった。両親も反対せず、半ば流されるように一人暮らしを始めたが、今となっては良いタイミングだったと思う。  物件を決めて数週間後に母は亡くなった。あのまま、父と同じ家で暮らすことは出来なかっただろう。  少し躊躇したが、母の部屋を覗いてみた。家具は全てなくなり、長方形の空間が広がっているだけで、ほっとしながら扉を閉める。  花野井の家で見つけた札は、稲城の神社に置いてきた。この近辺にも神社はいくつかあるけれど、父や兄に知られることを危惧して、わざわざ多摩川を渡ったのだ。  帰り道、山影から覗く観覧車を見ながら慧にラインを送った。 『この前はごめん』  返信はないかも、と思ったが、夜に『気にしてないよ。元気?』と返って来た。  文面を読むのを怖がった自分が恥ずかしいくらいスマートな対応だった。翌朝返事をし、それから何往復かやりとりを続けたが、付き合わせている感が申し訳なくて、日付を跨いだのを見計らって止めてしまった。  何より、妙な期待をしている自分が嫌だった。  単発のバイトをこなしながら無為に数日過ごしていた日曜の午後、直哉が帰宅した。 「どうにかしてくれ」  そう言って、ダイニングテーブルに一抱えもある緑色の球体を置く。 「西瓜だ!」  ソファから跳ねるように起き上がり、艶やかな縞模様を撫でさする。 「どうしたの、これ。随分立派だけど」 「マンションに送りつけられてきた…くそ、暑すぎる」  汗ではりついた黒髪をかき上げ、麦茶を勢いよく飲み干す。前髪を上げると、彫りの深い目鼻立ちが一層よく映えた。 「直くん、今も泳いだりするの?」  プールから上がった時もこんな風だったのかなと想像しただけだ。それなのに、直哉がぎょっと目を見開いて振り返るから驚いた。 「え、なに」 「…なんでそんなこと聞くんだ」 「水泳やってたって言ってたから。…夏といえばプールだし」  神社の近くに中学校があった。日に焼けた少年たちが水しぶきを上げる姿を横目に歩きながら、慧や、直哉をつい重ねた。  中学生だった二人。子供が大人になる姿は想像できても、その逆は難しい。 「ジムで時々、泳いではいる」 「良いね。俺も何か運動しようかな」  意味のない会話だった。先日、雨音に包まれた車内の時間と同じように、ぎこちない空気が流れ始める。  包丁とまな板を用意し、西瓜を半分に切る。切った面を伏せ、球体を沿うように皮を削っていく。胡瓜とそっくり同じ匂いに、見た目は違うけど同じ瓜科の野菜なんだなあと実感する。  自分と直哉はどうだろう。見た目は全く似ていない。他人だから当たり前だ。でも、これだけ長い間家族として過ごしているのだから、似た箇所、同じ匂いを醸し出す場所が一つくらいあっても良いはずではないだろうか。  果肉をキューブ状に切り分けてタッパーに詰めていると、シャワーを浴び終えた直哉が戻って来た。 「積み木みたいだな」 「こうしたらいつでも食べられるでしょ。どのくらい持って帰る?」 「…いや、今日から休みなんだ。こっちで食ってく」 「あ、そっか。夕飯で食べたいものあったら言ってね」  しまった、日帰り前提で訊いてしまった。ここは直哉の家でもあるのに。  帰ってほしかったわけじゃない。ただ、茜がいる家に泊るつもりだなんて思ってもみなかった。  数か月に一度外食に誘われる以外、直哉とまとまった時間を過ごす機会はなかった。兄にとって居心地の良い時間にならないことも分かり切っている。  自分が転居を拒んだツケが茜に回ったと知り、気を使って帰って来たのだろう。  直哉はリビングのソファに寝転んでタブレットを眺め始めた。  兄がくつろぐ姿を見るのはいつぶりだろう。家を出てからしばらく、正月に数時間いればマシ、という程寄り付かなかった。理由は分かっていたから、触れることもなかったけれど。  直哉は父の前でも母への嫌悪感を隠そうとはしていなかったし、父も咎めはしなかった。  父と直哉は、性格的には似ていない。直哉は、例え後ろ暗いところがあったとしても、自分の恋人を邪見にされればはっきり物を言うだろう。  考え方に一本の軸があるのは慧も同じだ。ちょっとのことでは嫌われないという自信か、そもそも与えられる物に興味がないのか。  途切れたままで終わらせたメッセージを、慧はどう思っているだろう。返信が行き詰ったのは、慧の物言いの滑らかさと、自分の未熟で幼い態度を比べて恥ずかしくなったからだと見抜いているだろうか。  皿に盛りつけた西瓜は筋もなく瑞々しい。指でつまんで食べると、口いっぱいに果汁が広がった。スーパーのカットフルーツとは全然違う。嬉しくなって直哉を見たが、タブレットを抱えたまま舟を漕ぎ始めていた。  音を立てない様、ダイニングの椅子に座る。西瓜をつまみながらレシピサイトを見ていると、兄の携帯がけたたましく鳴り始めた。 「はい、月森です」  寝起きは壊滅的だったはずなのに、意外にも直哉の声ははっきりとしていた。だが、短い通話を終えて振り向いた顔は思いっきり顰められている。  無言のままリビングを出て、戻って来た時には鞄を下げていた。 「…仕事行ってくる」  不機嫌そうに宣言する。 「何かあったの?」 「商談会の人員が足りないらしい」 「そっか」  商談会が何か分からないが、重要な仕事なのだろう。見送りに玄関までついてくと、スニーカーをつっかけながら「頼まれてくれるか」と言われた。 「鶴堂行って、菓子の配送してきてくれ。西瓜の御礼に」 「鶴堂って、新宿の百貨店?」 「そう」  直哉が玄関の扉を開けた瞬間、けたたましい蝉の鳴き声と、蒸し風呂のような熱気がまとわりつく。この中を出かけるのか。 「あとで住所送るから、頼んだぞ」 「ネットで頼んじゃ駄目?」 「欲しいやつ、店頭でしか取り扱ってないんだよ」 「…直くん、帰り寄れない?」 「無理、会場有明だから。そろそろ百貨店くらい慣れておく歳だろ。じゃ、西瓜食いすぎるなよ、また腹壊すからな」  大人扱いと子供扱いを半々にして直哉は出て行った。渋々と身支度をする間、相手先の住所と指定の商品が送られてくる。茜の知らない人で、住所は横浜。以前、兄家族が住んでいた地域だった。
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